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第13話
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キュアッドリーは自分の少ない服を汚すのも厭わず切り刻まれた女の身体を抱え起こした。まだ微かに息があった。彼女はわずかに残る体力を惜しむ様子もなく、血に塗れた手で少年の指を掴む。
紐は換えろと呑気なことを言って、女は白翡翠のペンダントを握らせた。赤く濡れてしまっている。先生の名を口にした。声が出なくなっている。喉の痛みはない。キュアッドリーは女の手ごとペンダントを握った。自分からは渡すものが何もなかった。弟からもらった翠色の玉を見つけて、開いたままの指に包ませる。だが手を離すと彼女の腕は落ちてしまった。そして開かれた指から転がってしまった。それはメロンキャンディと間違いそうだからと、以前に快く受け取ったものだった。それが哀れで貯めておいた本物のキャンディを柔らかな頬に入れた覚えがある。あの弟が。水が布にゆっくりと沁みていくように理解してしまう。
キュアッドリーは長いこと腕の中の女の重さを感じながら声も出ず、どうしていいかも分からず呆然としていた。これから先のことが何も見えない。明日の食事も摂れるか分からなかった貧しい生活よりも黒く塗り潰されている。
そうしていると、背後に圧を感じて振り返る。真っ黒な羽根や枯枝に似た風貌は、夢で会った兄だった。変わり果てた姿をしていても鮮やかに光る眼差しは優しい。
「お別れ、出来なかったよ」
兄は黙っていた。キュアッドリーは先生の身体を抱き締めた。兄の長い爪が2人に伸びる。庭によく落ちていたカラスの羽よりも小さな羽根や羽毛がキュアッドリーから女の身体を奪う。
「嫌だよ、ディル。嫌だよ…またみんなで暮らしたいよ…」
『…そウダな』
溢れる涙を乱暴に手の甲で拭い、キュアッドリーは立ち上がった。州局に向かって助けを呼びに行かねばならなかった。それしか方法を知らない。
弟が走り去っていくのを見て、ディレックは息の絶え絶えの女を見ていた。
デュミルに気を付けろ……あいつは、お前等とは共存できない……
『分かっタ。あリがトウ』
銀髪の女は目を閉じた。全身から血が抜け出ていっているが、不思議と死を感じなかった。迷い、惑う、弱い者たちがいるからだろうか。
ディレックは女を門柱へ凭せ掛けた。すでに人の子供の腕力ではなかった。キュアッドリーが戻ってくるのであろう。傍に居てやりたかった。だが身はひとつ。他にすべきことがある。
彼はエリプス=エリッセに飛んだ。カラスになって飛んだ。銀髪の女と忠告を受けたそばから破った。彼は末の弟に会わなければならなかった。
観光都市だけあって、そこは夜でも人気 がある。しかしディレックは人の形に戻ることができた。だが苦しかった。肉体が、その限度があることも告げている。そのうち人の形に戻ることも叶わなくなる。
末の弟の場所は分かった。目蓋の裏に描かれている。その夜は華の水上観光地エリプス=エリッセも不気味な鳥の群れに悩まされたことだろう。食糧を食い荒らしでも、糞を散らかすでも、鳴き喚くでもなく、瀟洒 なホテル街一帯を占拠する。
そういう光景のなかを颯爽と歩く青年がいた。チョコレートを思わせる茶髪に空色の瞳をしている。その者は、人を抱えていた。上質な地合いの、黒を基調とした制服はカーバス祠官学校の生徒を示す。抱えられているのはエイジス。抱えてるほうの男・デュミルの養父であるはずだった。だがその養父よりも、抱えている男は大きく見えた。
ディレックは青年といって差し支えない末の弟を真正面から捉える。青い瞳が街灯を受けて深い色をしていたが、柔和に眇められている。しかし兄のほうはそうもいかない。
「レニーは?」
末の弟はホテルを目で差した。
「そいつは……」
彼の腕の中でぐったりと四肢を投げ出している少年の頭は一部が欠けていたし、何よりも血が滴り落ちていた。末の弟は血に染まりながら、首を振る。養父となりたがっていた高尚で高潔な少年が飛び降りるところはディレックも己の眼球でないところで見ていた。
「デュン。どうするんだ、これから……」
青い瞳が伏せられる。答えに窮しているようだった。可愛い弟の仕草であった。人の姿が解かれてしまうのとはまた別の息苦しさが込み上げる。目の前の男を弟と認識していても、実際は弟ではないのだ。ディレックは自身より先に成長を遂げているその風貌を認め、改めなければならなかった。だがそう容易くはいかなかった。
デュミルは黙っている。ただ嘲るように笑っている。
「デュン……?」
弟が口を開く。一瞬の空洞が見えた。そして次の瞬間に彼は咳き込んだ。幼少期から変わらない小振りな唇から黒い羽毛が散る。腕に抱いた若過ぎる養父を飾っていく。
末の弟には舌がなくなっていた。咳嗽 ですら空気の切る音しかなかった。
「デュン……」
ディレックは硬直してしまった。弟という認識はやはり拭い去れなかった。デュミルは敵だ。弟ではなかったし、何か目的があるらしかった。会うことに警戒していた。場合によっては害さなければならないとも思っていた。しかしいざ、その身体に異変があったと知れると狼狽えた。
デュミルは腕の中の養父を抱え直し、ディレックの脇をすり抜けていく。ホテル街一帯に群がるカラスどもも、一斉にデュミルの行くほうを捉えていた。
すれ違いざまに、ディレックは元の生活に戻ることはもうないのだと悟らざるを得なかった。胸が詰まる。呼び止めてみようか。甘い誘惑である。だが振り切った。
末の弟が通り過ぎ、遅れてやってくる知らない家庭の匂いを嗅いだとき、ディレックはレーニティアがホテルにはいないことを知った。どこかの廃屋に彼はいる。辺りを埋め尽くすようにいるカラスのなかの一羽と、目が合った。羽搏 きが聞こえ、それは飛び立った。ディレックの脳裏に道順が示されていく。建物と建物の狭い通路の間に作られた小屋だ。隣の建物を崩さなければ撤去もできないほど、片側に寄生しているような小屋だった。元は壁無しの倉庫や納屋だったのではあるまいか。その隣に建物が建ってしまったのだろう。そういう作りだった。雨風を凌ぐだけの、小さな空間だった。
ホテル街一帯から少し離れた、観光客には見せるつもりのない地区にディレックは足を踏み入れる。何かの機 みでここが居場所にはならなかった。いいや、或いはここが居場所になるかも知れなかった。だが今となっては……
廂間 に入っていく。ディレックは横歩きをしなくてもとりあえずのところ通れたが、体格のよいレーニティアには正面から突き抜けるのは厳しかっただろう。
すぐ傍に迫る隣の建物を除いては横壁のない洞穴のような場所だったが、レーニティアはそこにいた。コバンザメの如く隣接した建物の裏口があるが、その持主にはおそらく無許可でこの空間を使っていた。何故ならば両脇の建物は廃墟と化していた。もし人が住んでいるのなら、正気の沙汰ではないほどに荒んだ環境に身を置いているのだろう。
このレーニティアの隠れ家には古ぼけた大きな木箱2つが並び、煤けた布が被せられ、寝台にされていた。彼は丸くなってそこに寝ていた。
「レニー」
ディレックは寝台にしては高い木箱の上に横たわる身体を揺すった。
「ディル……?」
「ここにいたんだ」
「デュミルが連れてきてくれた……ジェスは、」
徐ろに起き上がる不安気な翠色の視線からディレックは顔を逸らした。それが答えだと知れたのだろう。
「ああ……」
レーニティアが顔を覆う様を、痛そうに眺めた。
「あまりに急だとは思う。でも……」
ディレックの頭の中には、煩わしい声が入り乱れていた。養父になりたがっていたうら若き少年が何故突然自殺したのか。彼の嘆きが耳の裏に谺 するのである。彼の神に、彼は赦された気になれなかったのだ。デュミルの頬を張ったことについて懺悔したらなかったからだ。
「俺が居ながら……」
「疲れていたんだ。仕方がない。レニー。落ち着いて、」
静かに取り乱すレーニティアの肩に触れた途端、ディレックは指先に電撃のような痛みを覚えた。
我父トナレ!
その文言が、殴打されたように脳裏を過った。
「う………っ」
彼は人の形を保っていられなくなった。羽根が辺りを舞った。直後、一瞬にして尾羽がふっさりと生え、背中からは漆黒の翼が引き摺るほど伸びた。足は鱗が多い、爪は尖り、肥大化する。腰から下はほぼ怪鳥だった。苦しみに崩れ落ちる。
「ディル……!」
レーニティアは飛び起きて、羽毛を生やしはじめた弟分に寄り添った。
「平気……」
胸が苦しかった。それは大切な人を心配させているからか?いいや、もっと物理的に痛むのである。内側から皮膚の張り裂けそうな鋭い痛みだった。涙が溢れた。目を見開く。
「ディル………どうしたんだ、こんな……」
「レニー……」
保護者と思うには煩雑な感情の混ざった相手に彼は縋った。強い欲求を抑えきれない。心優しき者の心配をよそに、ディレックはその唇を吸った。
「ディル、いけない……」
身体が火照った。彼は自身の肉体の変化に気付いていた。しかし衝動は止められない。困惑するレーニティアの肩をがっしりと掴む。
「レニー……好き」
銀髪の保護者は、この一言に弱かった。保護すべき年頃の子と、大人の男である。それは異様な光景であった。翠色の眼には慕情がかぎろい、幼いまでの若い欲求に応えたいようだった。逡巡していたのが隙だった。ディレックはレーニティアの銀髪ごと抱き締めて、荒々しく口付ける。
「ん……っ、!」
少し硬い髪質がまだ人の肌を残す指先に当たる。
「ディ………ル………」
呼ぶ声は呑まれた。ディレックは幾度も角度を変えてレーニティアに口付ける。
「ぅんん………っ」
躊躇いがちに開いた保護者の唇へ、ディレックは舌を捩じ込んだ。猛烈な情動に突き動かされている。この麗しい歳上の男のもっと奥深くに入っていきたい。そして何か遺していきたいと思った。
まだ身を任せきれず、かといって引く意思も進みきれる気概もないらしい手をディレックは握った。指を絡めれば応えるというのに、この生真面目な気質の青年は守るべき一線にこだわっている。それを瓦解したい。ディレックは彼の口腔を荒らした。存在しないはずだが存在してしまった胡乱な子供たちを食わせていくために、散々舐め舐 りしゃぶり尽くされたのだろう彼の舌を夢中で吸った。奴等の垢を落とすために、口で扱いた。
「ふ………ぅ、んん………」
レーニティアの四肢から力が抜けていく。ディレックは口を離して覆い被さった。唾液の糸は太くも儚いものだった。呆気なく消えゆく。
「ディル……こんなところで、いけない………」
「レニーがほしい。今すぐほしい。レニーが好き」
空が一瞬、真っ白に光った。遅れて轟音が響き渡る。この乾燥した地域に雨が降るのかもしれなかった。
「あまりにも、きゅ、急だな………」
下に敷い男が無理矢理に苦笑した。戸惑いは伝わる。ディレックは彼の匂いや声に、激しい劣情を催してもはや苦しくなっていた。急な自覚はあった。まるで発作だった。色情症の急病患者みたいだった。下腹部は張り詰めて、何をすべきか、何をしたいのかまで理解していた。そしてそれは到底、男相手には叶わぬことであった。
「ディル……おれたちは、家族なんだぞ………?」
発した本人も、そのことについて後ろめたさがあるようだった。しかしディレックは毅然としていた。そんなことはすでに何度も問い返し、考えに考えたことだった。
「レニーにオレの子、産んでほしい」
ディレックは返事も聞かず、レーニティアの股ぐらへ降りていった。
「ディル!待て……」
空が閃いた。遅れて轟く。耳鳴りのような音をたてて勢いよく雨が降りはじめた。
「待てないよ、レニー」
口付けとこの空気に、大人の男も中 てられたらしい。彼は仕事をこなすうちに、肉体を敏感にしていた。ゆえに人気を集めた。金が入り、3人の曖昧な存在を食わせていた。しかしそれでも貧しかった。
硬くなって起き上がりかけているものに触れた。まだ確かめているだけだった。大振りな柔らかい嚢も、持ち上げてみる。瑞々しく張りのある弾力が薄い皮膚の中を逃げていく。
「ああ……ディル………そんな………汚い」
「レニー」
銀糸の叢にディレックは鼻を押し当てた。慣れ親しんだ匂いに汗の混じった淫猥な影を感じる。レーニティアが身を捩るのも構わず、薫香を嗅ぐ。同じ匂いがしていたはずだ。それがここ数日間で変わってきてしまった。親子でも兄弟でもなかった。他人だ。しかしそれでいて、突き放しておけない。むしろ引き寄せて、内部まで入ってしまいたい。欲求をすぐに満たせない感覚は吐気に似ていた。求めた相手の淫らな体臭への陶酔は、腹痛に似ていた。
逸 る気持ちを抑え、ディレックは少しずつ膨らむ箇所に指を絡めた。
「あ……!ディル………!」
彼が声を出すときには、手淫が始まっていた。
「あ、あ、ディル!ディル!」
「痛かったら言って、レニー。気持ち良くしたい……」
ディレックの声はどこか虚ろだった。とろんとした紅い双眸は危うげである。けれど番いと決めたこの青年に対しての心遣いは空虚にしておけなかったのだろう。
一体、この少年に何が起きていたのだろう?劣情は人をおかしくさせた。そしてこの人の身を捨てつつある半怪鳥もまた、繁殖欲に支配されていた。番いを思い遣る理性をどうにか繋ぎ留め、この半鳥人は、半ば発情に侵食されていた。
手で扱き、それが天を衝くとディレックは口を開けた。
「あああ!」
雨音に恍惚の嘆きが沁み入っていく。下半身を羽毛に覆われた少年が、人間の男のペニスを咥えている。奇怪な光景だった。
「ディル………」
褐色の大きな手が、艶やかな黒髪に置かれた。それが合図だったらしい。ディレックは頭を上下に動かした。硬く膨張し、小刻みな凹凸を浮かべる肉柱へ舌を巻き付ける。粘着質な、滑らかな雨の音色に隠れきれない。
「ディル!ディル……ああ!」
ディレックはまだ幼い。自己の認識に対しても、彼は己が身を経験豊富な大人とは認めることができなかった。歯痒く守られているしかない子供であると思い知らされてばかりだった。こういったことに長けているはずもなかった。嫌悪感もある。レーニティアの肉体でないのなら。
じゅるじゅる、ずぞぞ、と育つ環境は悪くとも育ち方の悪くない彼には珍しく、下品な音がたった。
嫌がるような、遠慮するような、押し除けようとする手に手を重ねる。相手は男であった。しかしディレックは彼を孕まそうとしていた。気概や比喩の話ではなかった。彼は爛々とした目で、本当に彼を孕まそうとしていたし、そのことに不可能を感じなかった。彼は身籠もれる……
「ディル……、もう出るから………」
「出して、レニー。オレの口内 に」
レーニティアという男は金を得るために身売りをしていた。時には女を抱いてもいたが、そのほとんどは有象無象の男たちに抱かれていた。男相手には対してはほとんどが受け入れる側であったが、この年少者に対してはどちらの立場を望んでいたのだろう?
「だめ………だ、!」
ディレックは怯えたような目を見せるレーニティアへ露悪的な、しかしあざとさを込めて笑いかけた。下唇に接していた肉傘がどくりと疼いた。
「レニー、オレのナカに挿れたかった?ごめんね」
小さく蠢くプラムの蒂 をなめらかな舌裏で撫でた途端、彼は眼前で白く大柄な繁吹 を見るのだった。
「は………あ…………ディル、すまない………」
顔面に青臭い粘液を絡ませながら、ディレックはまたもや微笑みかける。指で拭い、一口味わった。
「元気そうだね、レニー。よかった」
雨がわんわんと廂間 に谺 する。
「すまない、すまない……」
「いいよ、レニー。レニーのだから」
滴り落ちていく種汁をとって、舐めていたところのさらに奥へとその手を忍ばせる。
「する……のか?」
翠色の目が潤んでいる。まだ割り切れずにいる。
「したい」
ディレックはこの大きな恋人の弱いところを知っていた。どうすれば彼を困らせ、彼に受け入れられるのかという点について、よく心得ていた。
「分かっ………た」
体勢を変えるのと共に白銀の睫毛が伏せられる。
「寝ていて平気だよ」
しかしレーニティアは気怠るげに起き上がると、ディレックを押し倒すように、人の肌を残す胸元へ凭れ掛かった。
「俺もディルが欲しいのは、本当なんだ」
それでいてまだ戸惑っているようだった。けれども彼なりに決意して動き出している。
「レニーはオレの……」
紅瞳に炎が燃え上がる。掠れた声だった。長く伸びて尖った爪を順に噛み切っていく。鋭い痛みが走り、血が滲んだ。だが些事だった。射精の余韻でひくつく後孔へと指を這わせる。腫れている感じがあった。金持ちの、いくつも年下の、まだ子供みたいなのと結婚したことによって、金にはもう困らないはずであるのに、そこは容易く体外からきたものを受け入れてしまう。
「あ……ぁ、ディル…………ア、」
腫れて盛り上がる窄まりに指先は消えていく。
「気触れてるね、レニー」
レーニティアの手が縋りついた。ディレックもまた彼の背中を抱いて支えた。金のない男を救った善男善女に暴かれ、引き摺り出され、扱かされた渦門の蝶番は固くなかった。簡単に、ディレックの指を何本も呑み込む。そうであろう。レーニティアは金のために、大男の腕ほどあるものまで咥えたのだ。怪鳥少年はこの兄貴分を悍 ましく思ったであろうか?恥ずかしく思ったであろうか?穢らわしく?
ディレックは渇ききって罅割れた地面に、慈雨が降り注いだかのような心地がした。愛された喜び。しかし慈雨はやがて、地面を泥沼に変えた。悲しみがやってきた。身体を壊すまでに働かねばならなかった。子供は無力だった。否、厭うた。やりようはあったはずだ。法も条例も打ち破り、ろくでもない欲望を持った輩を誑かすこともできたはずだが。だがディレックは厭うた。弟たちにもさせたくなかった。恐れた。
眼球の裏が熱くなる。だがそれだけだった。鳥は泣かぬのだ。怪鳥もまた。
ディレックはレーニティアに口付けた。愁いを湛えた翠色の目が細まる。金稼ぎに使うしかなかった孔を穿 られて、気が弱くなっていた。
「ふ………ぁァ……」
紅い瞳に薄い目蓋が滑り落ちていく。感覚を集中させた。媚薬のような口水を、恐ろしい輩に蹂躙された喉へ流し込む。
「ん………んく、………」
舌を結んでしまいたかった。労りの言葉ひとつかけられないのならば。擦り込まれた善民の欲垢を舐め拭ってやれないのならば。
レーニティアも弟分とのキスが気に入ったらしかった。乱暴に扱われた柔路がディレックの指を食 む。
頭痛とはまた違う、浮揚感に苛まれていた。ディレックはレーニティアを支えていた手を放していた。銀髪の彼が縋りついてくるのをいいことに。長い爪は、地を引っ掻いていた。内側から巻き起こる澎湃 を恐れていた。衝動が大切な人を傷付けようとしている。傷付けても構わんとしている。汗が噴き出した。情動に耐えられないかもしれない。
「ディル………大丈夫だ、俺は。俺は大丈夫だから……」
翠色の瞳が、暗闇で突如現れた光のようだった。顔面を強打したようなときに似ていた。握り締めねばならない拳にさらに力を入れる。爪が逆に張られて撓 む。想い人の皮膚を削るのならば折れてしまえばよかった。
「挿れて………」
紅石を嵌めた目が見開いた。ディレックはディレックでなくなった。漆黒の羽毛は量を増し、丈を伸ばした。産ませる。何かを産ませようとしていた。貧しい生活ながらに筋肉質な褐色の肌を鷲掴みにする。レーニティアの表情に怯えが走る。
「ディル……?」
呼ばれた。ディレックは口を開いたが、喉から隙間風の吹いているような音が出るのみであった。恋人であり、弟分であった者の異変に、この青年は気付いたようだった。人なのか怪鳥なのか分からなくなった体躯を抱き寄せる。素肌が羽毛に埋まる。
「大好きだよ」
だが所詮、相手は怪物であった。すでにそれは人心を持っていなかったのかもしれない。レーニティアの引き締まった腰を掴み、かろうじて人の形状をまだ残す股ぐらへ引き寄せた。
「ああああ!」
根元までずっぽりと、大した抵抗もなく、物慣れたそこは異形の突起物を受け入れた。黒い羽毛の鳥人間は、銀髪の青年を上下に揺さぶった。番 いが震え、戦慄いているのも構わず、突き上げた。噛み損じた爪の端から血が滲む。腰を掴まえるのに必死だからだった。そしてつい先程まで存在していた少年の努力は虚しく、反対の手から伸びた爪は、褐色の薄皮を削るのだった。
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