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第12話

『っあっあっああ、腸内(おまんこ)イきでき……るのに、陰茎(オス)イき、しま、す!あっあっ…!』  茎に入ったピンを自分の手で抜き差し、卑猥な言葉を吐きながら浅黒い肌がシーツとの絶妙な色差の中でのたうった。特殊な自慰によって快感に焼かれた翠色の目は眇められ、上下する腹に白濁した雫が散っていく。濡れた唇から抜けていく甘い声に耳の奥から溶かされる。  ディレックの目蓋が上がり、紅い瞳が露わになる。鼻の下の肌が張る感じがあった。手の甲で拭って乾いた血を落とした。玄関のドアが開いた。珍しく作りでこの部屋は土足ではなくスリッパに履き替えなければならず、入ってきた者は靴を脱ぐため背を向けた。萎びた茶髪が眩しいくらいの白いコートに一房、二房ほど落ちている。横の壁には杖が立て掛けられていた。 「あんたか」  鍵を持っているのはこの男だけだった。彼は振り返る。  大丈夫か。  よろよろと立ち、州知事はディレックを抱擁する。むしろディレックが彼を支えているようでもあった。硬い指の腹に人中を擦られる。  また悪い夢をみたのか。 「うん、まぁ」  ディレックはそのままリビングの大窓の前にあるソファーへ州知事を運んだ。その少し前に円形のキッチンテーブルセットがあった。卓上には何も挿していない花瓶が置いてある。孤児院よりも生活感に溢れていたがあくまでそれは過去のものだった。キッチンスペースのタイルの壁に掛けられた十数種類のナイフも電磁調理器も暫く使われていない感じがあった。その脇にある子供部屋は扉のステッカーや色で子供部屋だと思っていたがまだ中を覗いたことはなかった。特に興味もなかった。それよりも淫夢によって張り詰めた下腹部に落ち着いていられず頻りに脚を動かしてしまう。  処理して差し上げようか。 「い、いい…!」  何を言い出すのかとディレックは州知事を睨んだ。死臭すらする枯れ果てて朽ち、萎びていたはずの姿がぼやけ、豊かで艶のある栗色の髪の美青年がそこに座っていた。  我慢はよくない。  潤いのある唇が動く。よく晴れた日の海と空を映したような若々しい瞳。誰だか分からなかった。しかしよく似た特徴の男を知ってもいる。ディレックは目を見張った。ほんの一瞬の出来事だった。ディレックの目の前には淀みきった青い瞳を彷徨わせる年齢も想像のつかない男が座っているだけで、若い男の姿はもうこの部屋にはなかった。濁った双眸は首を傾げる。色が抜けて光る毛の目立つ髪が粗く照っている。 「落ち着いた」  反発の少ないソファーの背凭れにディレックは身体を預けた。この部屋も不思議と馴染んだ。長く住んでいるような心地すらした。大人なら2人、子供が2人以上なら3人で住めるくらいの広さだった。大窓から入る光だけで薄暗かった部屋が明るくなる。それはもう外が日没後でなければ出せない明かりで、キッチンテーブルには黒い髪の少年が座っていた。レーニティアによく似ながらも険しさのある青年が彼を抱き上げ、今隣で見たばかりの美青年と子供部屋に運ばれていく。  どうなさった。  くしゃみを終えた後の呆気なさに似ていた。薄暗い部屋があるだけだった。フローリングやテーブルが白くなっている。 「あんた、ここ…住んでた…?」  州知事は小さく頷いた。「少し」と掠れた声が聞こえる。 「家族いたんだな…ま、良かった」  レーニティアによく似た青年のことは気になった。だがレーニティアではないことは確かで彼が大聖堂を放った少年の傍に居たことにどこか安心した。  その後、捨てた。犬猫みたいに…簡単に…  州知事は相変わらず表情はなく淀んだ眼をしていたが、その間にも覚えのないこの部屋での団欒風景が頭に流れ込んでいた。少年を眺め、先程見た美青年が口元を緩めて話を聞いていた。見てはいけないような心地になった。人の覗いてはいけないものを不本意に垣間見てしまった時のような。 「あんたの作る枝豆の赤いリゾットが好きだったみたいだ」  ディレックはソファーを立って広い部屋を抜けテラスに出た。水上都市の観光ホテル街よりも高く、積木のような建物が無数に生えている。車は蟻よりも小さかった。人は砂ほどだ。手摺りにカラスがやって来る。汚いから触るなとレーニティアに言われ、ディレックは弟たちに言った。だがもう守る必要もないように思えた。抵抗感もない。毛艶のよいカラスの膨らんだ胸元を指先で撫でた。カラスは人民を監視していると大聖堂では伝えている。そしてその大聖堂の歴史は負傷したカラスをプント少年という村のはぐれ者が助けるところから始まるらしい。大聖堂の建立(こんりゅう)者である大祠官はそう語っている。大祠官はこのプント少年の弟を名乗っていた。 「まだ覚めないのか」  干したダークチェリーのような目が左右に傾く。何の話だか分からないとばかりの仕草は言葉が通じているようでおかしかった。 「あんま、怖くないんだ。やっぱ夢、だからかな」  テラスの手摺りに背を預け、空を見上げた。ただ一色、末弟の瞳の色だった。白い雲もない。鳥も飛ばない。気球も見えない。飛行機もない。 「概ね楽しかった。レニーがいて、キュディがいて、デュンがいて。でもあの姐ちゃんとあのよぼよぼのおっさんは大丈夫なんかな」  カラスは首を傾げた。ディレックは誤魔化すように鼻で嗤った。そして屈み、膝を抱いた。 「デュンが弟じゃないって、なんだよ。キュディは州局員になるんじゃないのかよ…」  カラスの爪が小さな音を立ててデッキにぶつかった。同じ色の眼差しに覗かれる。 「美味いもの食べさせてやりたかった。良いもの着せてやりたかった。どっか連れて行ってさ、楽しい思い、させたかった。どうせ消えるのに、でも」  口にすると余計な感情が溢れてくる。しかし声に出して実在しているものたちに(なす)りつけるように残しておかねば、その想いも消えてしまいそうだった。しかし叶わねば同じことだった。鬱ぎ込み、目を閉じた。また頭の中には銀髪の青年が映る。大振りな白い花の中に埋まって眠っている。膝を抱いていた黒髪が持ち上がった。紅い瞳は煌めき、カラスの目と一筋の光で繋がる。頭が激しく痛んだ。骨から軋んでいく。鼻血が流れ落ちるがデッキを汚したのは真っ黒な液体だった。腹が凹み、耐えられない圧迫感に内部のものが迫り上がる。涙が止まらない。テラスを漆黒の体液が汚していく。やがて黒い毛の中から朽ちた大樹の枝に似た角が生えた。肩が外れるような体内の軋みにディレックは自らが吐き出した暗黒色の液体に汚れるのも構わず(うずくま)る。骨が破裂しそうだった。彼のまだ若い背中にも枯れた枝が空を穿つように勢いよく現れる。それは左右で一対となり、翼のように広がった。耳の奥で老いて掠れた声が何か言っているが嘔吐感と激痛により聞いていられなかった。腰も砕けるように激しく痛んだ。真後ろのガラスに押されたような感覚になり前にのめる。濡羽色の長い羽根が連なったような尾が尾骶骨から伸びている。 「キュディは…キュディ……は…」  黒ずんだ爪が霞んだ視界の中でカラスを探す。あの弟がこの痛みに襲われるのが恐ろしくて堪らない。部屋の扉が開き、杖の男が転びそうになりながらやって来る。彼がテラスまでやって来る間に一度鎮まりを見せた痛みが胸を襲う。皮膚が裂け、骨が歪む。時折レーニティアが買って来るコーヒーゼリーによく似た鋭い塊が露出した。赤かったはずの血は月のない夜の海に似ていた。 ◇  弟が刃物を振り回す夢をみて緩やかにキュアッドリーは目を開いた。腕の中にデュミルはいなかった。レーニティアは婚約者のところに居るため2人で過ごしている。ディレックが聞いたら怒ることだ。しかしレーニティアは当の長男が帰らなくなってから日に日に体調を崩し、彼が居ないことを心配ばかりし、そのうち会いに行くと言って利かず、激しく怒り狂い、かと思えば兄弟や婚約者の顔を見て泣き出しはじめ、深く反省することばかりを繰り返すようになった。キュアッドリーは放っておけず州局での勉学を休むことにした。事情が事情なだけに主な監督である州局員の女に話すにも苦労を要した。やがて不安定な保護者は幼い兄弟が寝静まってから夜に抜け出すようになり、とうとう婚約者はこの孤児院から連れ行ってしまった。誰にも会わせず刺激しないようにすると言って。  デュミルは彼等に会いに行ってしまったのかも知れない。庭に駆け出た。一羽のカラスが滑り込むように目の前で着地し行手を阻んだ。紅い瞳に見上げられる。背後に足音が聞こえ振り返る。黒い羽根が散っている。巨大なカラスがいるような感じがあった。細い幹とそこから伸びる朽ちかけた枝のような角と同じような翼を左右に持った人くらいの大きさの影がある。紅い瞳が光っている。長い尾羽が地面で反り返り、外灯によって虹色の光沢を帯びていた。黒く鋭い爪がキュアッドリーに伸びる。その輪郭は(ひず)み、不確かで、曖昧だった。 「ディル…?」  見た目はまったく兄ではなかった。差し出された手に応える。柔らかな掌にむず痒く黒い爪が乗った。 「ディルだよね…?」 「キュディ…」  兄の声にまた別の声が重なっている感じがあった。だが兄だった。レーニティアが大変な状態であること、デュミルが消えたことを話そうか、それよりもこの姿は。キュアッドリーは混乱しながらも長い爪ごと指を握った。 「ディル、」 「キュディ。よク聞いテくれ」  改まった態度とやはり別のものが重なっている兄の声に警戒を示してしまう。 「あの、ディル」  兄の腕がキュアッドリーを抱き締める。兄の感触で、兄の匂いだった。後頭部の髪に爪が引っ掛かる。背中にも爪が当たって痒さが残った。 「オレたちは、人間ジャ、なカった」  キュアッドリーは紅い瞳を見開いた。そして兄の胸元に頬を擦り寄せながら俯く。 「何…?どういうこと?」  兄の足の間から淡く色を持って照り付ける黒い尾羽が見えた。 「オレたチハ大聖堂の夢ダッた。キュディ、お前も」  そのような冗談を兄から聞いたことはない。大聖堂の夢。胸の内で復唱してみる。大聖堂は建物だ。夢などみない。 「嫌だな、ディル…何言ってるの?その格好も…」  レーニティアのこともデュミルのこともまだ解決していない。頭が破裂しそうだ。まず何からやり出せばいいのか、何かの冗談中のディルに話してもいいものか。 「オ別れしテコい。残サレるのハ、多分つライかラ…」  優しい声もやはり重なっている。夢だと思った。兄からはあまり発されたことがない柔らかさだった。  やはり夢だった。レーニティアがおかしくなってしまったこともおそらく。目蓋の裏の眩しさで目が開いた。隣には窓を見ている弟が小さく座っている。その背中へ潰さないようにしながらもまとわり付いた。 「キュディ、おはよう」  弟の愛らしい顔が振り返った。日に照った円やかな頬は光との境界を失い白く溶けていた。 「レニーは?」  大きな青い瞳に自分が映るのをキュアッドリーは見た。ミルクチョコレートを引いたような眉が無邪気に上がった。薄いピンク色の唇は内容に反して弧を描いていた。 「レニちゃ、こけはおらんばい。パパといっしょにおるたい。どぎゃんしたと?」  レーニティアのことは夢ではなかった。まだ頭は冴えなかった。 「ごめん。朝ごはん食べよ」 「…キュディ、もうやすまんでよかばい。おれひとりでやるるたい」 「じゃあ、デュンも一緒に行く?1人にしておけないよ。ぼくから頼むから」  小さな弟に気を遣わせている。揃いの茶髪を撫でた。小さな頭がゆっくり項垂れていく。 「州局の人怖くないし、みんな優しくしてくれるよ。デュンならすぐ慣れるよ」 「そうじゃなか」  デュミルはキュアッドリーに向き合う。丸く大きな青い瞳に日差しが白雲を浮かべる。 「うなされとった。もとんせいかつにもどったほうがよかんやなかと」 「デュンを1人にできないよ。そのために勉強してるんだから」  弟は顔を背け、キュアッドリーへ抱き付く。利発で人懐こく素直だが保護者も長弟も、兄代わりの養父もいない。そしてやることのある次兄を慮っている。健気な弟が愛しく、どうにもできない己の非力さを真面目な少年は悔やんだ。温かく小さな背中を抱き締める。夢の中で兄にそうされたように。 「ディルに会いたいね。そうしたらレニーも、帰ってくるよ」  腹に顔を埋める弟の髪を梳く。夢の中でそうされたように。何度か撫でてて手を引いた。ほんの一瞬、自分の爪が鋭く伸びているような気がした。そして(ひず)み、部分的に透けているような。 「デュンは本当に、1人で生きていけるかな」  呟いていた。デュミルは顔を上げ、そして自分が何を言ったのか気付いた。 「こんなにぼくたちが弟離れ出来なくてってこと。大丈夫だよね。デュンはお利口さんで、明るい子だからね。どうしてそんなこと思っちゃったんだろう」  キュアッドリーは小さな頭に手を置いてからベッドを立った。朝食を用意する。養父の支援によって持て余していた冷蔵庫には多くの食材が入っていた。時折様子を見にくると言っていた。だから2人で買い物に行くのはやめるようにと。缶詰や乾燥食品も多く置いてあった。今の弟には作ったものを食べさせたくなって生卵を取った。料理は兄に任せきりで卵を割るにもまだ殻の破片を入れてしまう。掻き回して、熱したフライパンに広げる。デュミルはキッチンチェアに座っていた。  昼頃に州局勤めの女が手土産を持って孤児院を訪れた。簡略化したテキストをキュアッドリーに渡し、時間があればやるように言った。そして簡単な料理を作って家事を手伝った。帰り際にキュアッドリーは躊躇いながらもディレックの様子を訊ねた。彼女は良好と即答する。メロンキャンディに似た目はキュアッドリーを見なかった。パンプスを履くことのほうが優先とばかりに顔を伏せる。一目でも会えないか、レーニティアに会わせられないか。大人を困らせる問いを投げそうになった。  つらくなったら州局に来い。 「うん。ありがと、先生。でも大丈夫。デュミルもいるし、お養父(とう)さんもいつ帰ってくるか分からないし」  グレーのストライプのパンツスーツが振り返る。珍しくパンツが膝をつく。キュアッドリーの両肩に小麦色の手が乗った。緑色の目は惑いをみせるがそれでも少年を捉えようとしていた。オレンジ色の唇がわずかに開いた。  あのな、  ディレックのことを言われるのかも知れない。本当は良好ではなくて、会えないほどに重篤化しているのではないかと、疑いと不安に言葉を待っていられないくせ聞きたくもなかった。 「ディルのこと?」  銀髪の女は首を振った。まるでキュアッドリーの両肩に手を掛けて身体を支えているようだった。  もしあたしが遠くに引っ越しても、元気でやれよ。いいな。約束だ。 「先生、引っ越すの?」  キュアッドリーは左手に嵌る指輪を一瞥した。結婚相手の事情が変わったのかも知れない。それが良いほうになのか悪いほうになのかは分からなかった。 「分かった。寂しいけど…約束する」  ありがとうな。邪魔した。ちゃんと飯食って、ちゃんと身体温めて、ちゃんと寝ろ。あのテキストなんぞどうでもいい。兄ちゃんたちもそれを望んでるはずだ。  少し様子が違い、それがこの女が引っ越し遠く離れてしまうということを強く認識させた。目の裏が痛くなった。早々に帰って欲しいわけではなかったが、1人になりたかった。彼女は掌の汚れを拭くような乱雑な手付きでキュアッドリーの頭を撫でてから帰っていった。 ◇  保護者だった青年は激しく揺さぶられていた。婚約者によって新たな性感帯を拓かれた前の膨らみの下で何百人もの欲望に費やされた孔は無花果(いちじく)のようになっていた。瑞々しく照り、蠢きながらまだ発育途中の肉体にありながらも完成した雄を受け入れている。両腕はベッド柵に括り付けられ、濡れた唇は保護すべき少年の名を叫び、やがて囁き、嬌声へ呑まれる。若い鹿を思わせる引き締まった白い尻と女王蜂のような括れた腰は浅黒く逞しい腿と腿の間で上下に弾んだ。  淫らで罪深い夢をみるんです。  何度目かの絶頂を迎え、上体を捻りながら悶える青年の胸に頬を摺り寄せ婚約者は言った。  貴方が僕の子を身籠るんです。そんなこと、あるはずないのに…  婚約者の麗しい両手がしっかりした腰を押さえつけ、華奢な下半身が青年の下腹部に沈む。  夢です。でも夢を持ってしまうんです。罪深い夢です。貴方に僕の子を産んでもらえるだなんて。 『あ…あぁ、ディル、ディル……ディルっ!』  怖がらないでください。大丈夫です。貴方が身籠るのは僕の罪だけです。  白い尻の側面が窪みを作る。身震いしながら婚約者は青年に種を注いだ。 『ディルっ!あ…ああ…っ、ディル……』  状況に不適切な相手の名を繰り返し、銀髪は枕に散らばった。張っていた腰がシーツに沈む。婚約者は彼に重なったまま離れず、繋がったまま汗ばんだ胸板や腹をなぞった。  ぷつりと夢が途切れた。隣でキュアッドリーが眠っている。普段から彼自身がされるようにその頬を手の甲で撫でた。まだ親や他の大人、兄に甘えていたい年のはずだ。しかしそれは年長の兄にも言えたことだった。長い睫毛がいつもより淡い月に炙られ、ゆっくりと光の筋を作っていく。ありがとな。耳元で囁いても声にはならず息が漏れただけだった。乱れたタオル生地の掛布を直し、自分が使っていた分厚い布団をそこに重ねた。窓の奥にはカラスが飛び交っていた。デュミルはベッドを降りて宿舎を抜け出す。庭には黒い鳥が道を作っていた。歩くたびに幼児は少年へと成長していく。上2人の兄弟の古着だと思い込んでいた衣類は消え、裸になり、白いスニーカーとフーデッドスウェットシャツが身を包む。青年になる少し前で彼の成長は止まった。  門の前に銀髪の女が立っている。次兄だった虚像が世話になった人物だ。腕を空に掲げると闇夜に溶けたカラスがその周りを飛んだ。黒い羽根が落ちていく。  ガキはまだ生きてるんだろうな。  女は口を開いた。努めて軽快な感じを保っているようだが激しい緊張を伴っていた。デュミルは首肯した。わずかな安堵が見て取れた。  どうするんだ。  デュミルは首を振った。女の緑色の瞳が伏せられる。しかし保護者の青年に似た霜柱のような睫毛は間もなく持ち上がった。  あたしは3人まとめてデカくなるもんだと思ってたよ。何なら、あたしが3人まとめて面倒看るつもりだった。  州局勤めの女は偽悪的に笑った。デュミルの青い目に映っていた頼りない月光が目蓋に隠される。  行かせない。  彼女に握られた拳銃がデュミルに向いた。しかしそこには迷いがあるようだった。彼は構うことなく門へ歩いていった。すれ違いざまに空へ発砲音が響いた。銀髪の女から夜に紛れた暗い液体が噴き出す。黒い羽根が彼女の周りを舞う。グレーのストライプのスーツは所々破れ、銀糸が羽根のように揺蕩い焦らすように色を変えていくアスファルトへ落ちた。  これが地神(かみ)の思し召しってか。クソが。  喉や胸から空気が漏れていた。その直後に鈍く曇った音が聞こえ、スニーカーの歩調が乱れた。青い目に炎が映る。振り返れないまま星空を見上げる。宿舎に明かりが灯った。またスニーカーが歩き出す。視界の裏が明滅する。姉がいた。寡黙で淑やかで料理上手な。花屋に勤めていたはずだ。背が高いことを恥ずかしがって家族以外にはあまり喋らなかった。射殺された。胸に一撃。即死だった。弟から見ても綺麗な人だった、気がする。鳥を1羽飼っていた。姉が連れ帰ってきた羽根の赤い綺麗な鳥だった。スキール音のような声で鳴いていた。人間ではなかったが友達だった、ような気がする。義兄もいた。姉の馴れ馴れしい旦那。キッチンテーブルの席が替わったことが不服だった。嫌でも銀髪と翠色の目が向かい側にあった。姉を巻き込んだ酷い人だった。面倒見は良かった、ような気がする。  後方で次兄だった虚無に等しい存在が泣き叫んでいた。兄だったはずだが今ではデュミルのほうが育っていた。そしてここから成長することも老いることもない。そして思い出す。好いた人がいた。年上のようで年下の、気の弱い人。記号的な感覚はあるが顔は思い出せず会いたいとも思わなかった。  兄の嗚咽が聞こえる。悲鳴だった。姉が死んだ時のことが色濃く蘇った。ガラスの壁の奥に姉の死体が寝そべり、喚くことも許されず様々な実験を施された。拷問めいたものもあった。人と神の融合を目論み、その計画に巻き込んだ義兄を恨んだ。結局芳しい結果は得られず捨てられた。ガス室に送られる前に降って湧いた案を頼りに逃げ出した。そして、おそらく好いた人に会った。浜辺に行ったような気がする。黒い髪がオレンジに染まっていた気がする。悲しげに見下ろしていた顔をわずかに思い出して、すべては出て来なかった。  ふらふら歩き始めた濡れた青い瞳に爆炎が上がる。水上都市に歩いていく。ホテル街に着き、エレベーターに乗った。洒落た観光地が下方に吸われ、暗い海が遠くに広がっていく。鍵の掛かった扉が容易く開く。兄たちと同じ紅い目がぼんやりと振り返った。虚ろな瞳は正気ではないらしかったがデュミルの姿をみるとそこに輝きが戻る。部屋は壁から流れ落ちる小さな川でリビングエリアとベッドエリアが分かれ、せせらぐ音が止まることなく流れていた。観葉植物に隠れたベッドには両腕を拘束されたレーニティアが寝ていた。養父の少年は彼に近付くデュミルを止めた。 「どなたですか」  貴方は新たな地神を孕ませる人です。  デュミルは片膝をついた。深く上半身を倒す。真っ白い床に双つ、さらにまた双つ雫が落ちた。 「出て行ってください。いきなり何を…神に対する冒涜です」  デュミルは泥塗れの小さな傘とも見紛う聖遺物を養父になり得た少年へ献上する。しかし少年は首を振って膝を着き、畏った姿勢のデュミルを覗き込んだ。 「おやめください。僕にはそうされるような価値はありません。貴方にもお天恵(めぐみ)がありますよう」  祠官がやる儀礼をして養父だった少年はデュミルを立たせる。  貴方は新たな地神(かみ)の父になる人です。  黒髪の掛かる額へ額を合わせる。紅い双眸はまたぼんやりとし始めた。枯れた白百合の中に埋まった銀髪の青年が脳裏に浮かぶ。彼こそが、この少年の子を孕まねばならない相手だった。元保護者やその庇護下にいる虚像ではなく実在し、そして何より地神に選ばれた男だった。 「地神の…父に……」  養父になるかも知れなかった少年が呟いた。祠官になる者なら誰もが夢みたことのはずだ。或いは恐れ多いと思いながらも訓戒では払い除けられない見栄や驕りが人には誰しもあるはずだった。覗いてはいけない窓を覗かなくてはならない心地にデュミルは少年の足元を見下ろしていた。 「地神への冒涜です。恥を知れ!」  デュミルは少年を見上げた。彼は「お許しください」と言って頬を衝撃が打った。懐かしいような気がした。姉だと認識している女性の口元までは思い出せた。ふと視界に入った優しい保護者の姿を見て、理由も思い出した。義兄を傷付けたからだ。遠くに祖父母がいて、姉がいて、義兄がいて、ペットがいた頃。濡れて怯える少年を見上げて好きだった人の顔が突然脳裏に現れた。だがほんの一瞬だった。震えた声で我に帰った。少年はデュミルの頬を張った手を掴んで取り乱す。 「ああ…!我が罪をお許しください…お許しください…!我が(かみ)よ…!」  彼は利き手を掴んでリビングエリアに消沈しながらよろよろと歩いて行った。このホテルで暮らしているらしく日用品が置かれていた。物音の後、部屋の隅から蒸気が噴く。室内は沸騰の音と許しを乞う声で支配された。やがて小さな悲鳴が聞こえる。啼泣しながら少年はずるずると広げられたままのアイロン台から崩れ落ちた。呼ばれた気がして近寄る。彼は自分だけでなくデュミルのことまでも許しを乞うていた。 「貴方の罪は僕の罪も同然です。共に慚愧()い改めましょう。地神(かみ)は必ず侮辱の罪を許してくださいます。それまではすべての苦難を償いとして…」  咽びながら少年は言った。まるで深く傷付いているのは相手のほうだと言わんばかりだった。利き手は今すぐにでも手当てが必要だった。この少年が思うほど地神は慈悲深いものでもなく、人の行動など関係もなく平等だった。善悪も結局のところは人の中のものでしかない。この少年が利き手を焼こうとも地神のいうことはただ白百合の中に眠る青年を孕ませろということだけだった。優しい眼差しにデュミルは惑った。焼かれていないほうの手が差し伸べられる。 「僕の存在(つみ)をお許しくださいまし」  デュミルは少年の双眸と差し伸べられた手の清らかさに耐えられなかった。部屋を飛び出す。ラウンジの張りのあるソファーに座り込んで栗色の毛を掻き乱した。暫く踞って、ホテルマンが具合を訊ねた。喉は焼かれ、舌を失った。デュミルは首を振って漏れ出る息吹で誤魔化し、エレベーターを降りていく。ホテルを出た途端にすぐ傍で水を潰したような音がした。長兄も着られるはずで、自分も無邪気に憧れてみせた制服が面積を広げていく。オレンジ色の外灯に照っていた。利き手も暗い色に染まり、焼けたことも分からなかった。(かみ)は許してくださらなかった。養父だった少年の二度と発せられることのない声が聞こえた気がした。デュミルは見様見真似の粗雑でぎこちなく(つたな)い仕草で式礼を済ませた。

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