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第43話
ただ抱きしめているだけ――
それだけなのに、藤ヶ谷は言葉では言い表せないほどの幸福感に包まれていた。
正直、今までにΩ性の男も女も・・・何人も相手にしてきたことはある。
しかし、抱きしめるだけで満足なんてとても出来なかったし、むしろ事後に酷い嫌悪感に苛まれて、今まで誰1人として長続きすることはなかった。
特定の相手は作らずに成り行きで体を繋げても、いつも心の奥底は冷え冷えとしていた。
――なのに今、ただこうしているだけなのに
どうしてこんなに暖かいのだろうか。
時を刻む感覚までも、彼を抱きしめていると緩やかに感じる。
穏やかな時間の流れに身を委ねていると、来訪者を告げるインターホンが無機質に鳴り響いたが、藤ヶ谷はそれをまるで当然かのように無視をした。
腕の中で小さく丸まる春を見ると、いつの間にか規則的な寝息を立て眠っていた。
その寝顔に、藤ヶ谷は心底ホッとする。
擬似的とはいえ発情状態だった春が、αである自分の胸の中で安心しきった表情で眠っているのだ。
もしかしたら、ほんの少しずつでも自分のことを受け入れてくれるのかもしれない。
そう思うと、震えるほどの喜びが胸の底からこみ上げて来た。
起こさないようにその身体をゆっくりとベッドに横たえ、ブランケットを掛けてやってから
春の柔らかく艶やかな黒髪をそっと撫でる。
甘い香りと柔らかな日の光に包まれて、藤ヶ谷は知らず知らずのうちに口角が上がり微笑んでいた。
静寂を破るように再び鳴ったインターホンに
藤ヶ谷は小さく舌打ちをして、春を起こさないよう静かに寝室を出た。
そして、そこに佇む見知った顔を見ると
腰に手を当てて盛大にため息をつく。
「・・・勝手に入って来るなって」
「なら、すぐに応答すればいいでしょう?」
ラフな部屋着の藤ヶ谷とは対照的に、しっかりとビジネスモードのスーツを着こなした高知は
視線だけで部屋の中を見回し、
「・・・西野、春?」
と一言呟いた。
「なぜ――彼の香りがするんです?」
高知の射抜くような視線を、藤ヶ谷は臆することなく睨み返す。
これまでの藤ヶ谷の交友関係は全て高知も知っていたし、何事も包み隠さず話していた。
一夜の相手と過ごす為のホテルの手配すら、自分でやらずに高知に任せたこともあった。
今にして思えば、酷い話だ。
相手にひとかけらの愛情も持てなかったからこそ出来た、酷い行いだった。
今の今までそのことに気付きもせず、何人の相手に悲しい思いをさせてきたのだろうか。
そんな己の愚かな過ちに、気づかせてくれたのは紛れもなく春の存在だ。
黙って睨みつける藤ヶ谷に痺れを切らした高知は、温度を感じない冷え冷えとした声色で、再び問いかけて来る。
「玄関には琉聖の靴しか見当たらなかった。
なのになぜ、西野春の香りがするんです?」
春はこれまでの相手とは違う。
いくら相手が幼馴染の高知にでも、このことは
なに一つ知られたくない。
――藤ヶ谷はそう思い黙り込んだ。
「へぇ・・・琉聖がダンマリとはね。
まぁいいでしょう、好きにすれば」
高知のあまりにも素っ気ない言い方に、藤ヶ谷は表情には出さないものの内心驚いた。
もっと問い詰められて、なんなら寝室に乗り込まれる・・・そう思っていただけに、あまりにもあっさりと引かれるといやな予感がする。
何か企んでいる時の高知は、いつだって余裕綽々な態度で藤ヶ谷に対峙してきた。
まさに、今みたいに・・・。
「貴方の感情の誤作動に此方は付き合うつもりは一切ありませんのでどうぞご勝手に。
しかし、仕事に支障をきたすのであれば話は別です。俺は全力でその原因を排除するまで」
不敵に微笑む高知に、藤ヶ谷もうっすらと笑みを浮かべて向き合った。
「そう・・・ご忠告、ありがとう」
「いえいえ、親友ですから・・・」
全く笑っていない高知の目を見て、藤ヶ谷は確信する。
――きっと予感は的中するだろうね。
それでも俺は、春とともに在りたい。
そう思うことはただのエゴイスティックなのだろうか・・・。
それは我が儘などではなく、到底抗うことの出来ない運命だとはまだ誰一人、藤ヶ谷本人ですら気づいていない。
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