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第42話

「僕はあの時、男たちに必死に抵抗する母と確かに目が合ったんです・・・。 でも助けられなかった。それどころか、恐怖で動くことすら、声を出すことすら出来なかった。連れ去られる瞬間に、こっちを振り返った母の・・・絶望に満ちた顔を、今まで一瞬たりとも忘れたことはありません。 思い浮かべる母との思い出は・・・全部上書きされちゃって、楽しかったこととか、もう何も思い出せないんですよ・・・」 藤ヶ谷は返事をする代わりに、右手は春の手を握ったまま左手で額に掛かる柔らかな髪をそっと指で撫でた。 きっとどんな言葉を返しても、春の痛みは消えやしない。 だったら今は静かにその痛みに寄り添い、少しだけでも引き受けることができたら・・・藤ヶ谷はそんな願いを込めて、優しく春の髪を撫でた。 「・・・次に母を見たのは、警察署だったかな。薄暗い湿ったような部屋で見た母はまるで眠っているようで、どんなに声をかけてもどんなに必死で許しを乞うても・・・もうなにも答えてはくれませんでした。 ・・・当たり前ですよね、死んじゃってるんだから。後で父に聞いたんですけど、母は誘発剤打たれて乱暴されたあと・・・よく家族で遊びに行っていた児童公園の噴水の中で・・・遺体で発見されたそうです。 ちょうど、今日みたいなこんな晴れた気持ちのいい朝、だったそうですよ・・・」 そう言って、春は眩しそうに窓の外へと目をやった。 「だからかな?こんな晴れた日は、なんとなく苦手なんです」 藤ヶ谷も、春の視線を辿って窓の外を見る。 高層階の窓からは空しか見えない。 その雲一つない空は、悲しいくらい蒼く、どこまでも透き通っていた。 2人で、言葉もなく空を見ていると藤ヶ谷のスラックスに入れられていたスマホが震えだす。 春は視線を戻し、藤ヶ谷を見た。 下から見上げる藤ヶ谷は、そのことに気づく様子もなくただ空を眺めている。 「・・・電話、出ないんですか?」 春の言葉に我に返った藤ヶ谷は、ポケットからスマホを取り出すと、電源を落としてそっとサイドテーブルに置いた。 「電話は・・・」 「ねぇ――抱きしめて、いい?」 「え・・・」 突然のことに、春は驚き言葉を失い藤ヶ谷を見つめる。 「あの日に戻って、はるとはるのお母さんを助けることが出来ないのが俺は本当に悔しいよ。 悔しくて、悔しくて・・・どうしていいか分からなくなるほどね・・・でも今、目の前の君になら手を伸ばして触れることが出来る。 俺の手が、君の痛みを全て癒せるなんて思わないよ?だけど、ほんの少しでいいから・・・分けて欲しいんだ」 「・・・・・・」 「傷も痛みも分け合えば、きっと・・・もっと楽になるよ。でも、君が嫌なら・・・悲しいけど止める」 その言葉に答えるように、春はゆっくりと体を起こすと真っ直ぐに藤ヶ谷と向き合った。 「・・・嫌なわけ、ないじゃないですか」 そう言って、春はおずおずと藤ヶ谷に向かい手を伸ばす。 「藤ヶ谷さん、ずるいですよ・・・。 貴方にそんな風に言われて、嫌だなんて思う人・・・いるわけないでしょ?」 顔を歪ませ、子供のように泣き出した春を、藤ヶ谷は優しく抱きしめる。 抱きしめ、その首筋にそっと唇を寄せると、暖かく甘い春の香りを感じた。 優しい朝日と2人の香りが、幼い日の彼がいる絶望の淵に射す一筋の光となるように 藤ヶ谷は願いを込めて、そっと抱きしめた。

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