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第1話

 友人のジョルジュがノロケていた。 「ほんっと、俺のリーザかわいすぎなんだけどさ、もう何しててもかわいいんだけど、なんかの機会で呼び捨てにされるときは本当たまんない。あれは犯罪級。いつもは様づけだから、呼び捨てにされると破壊力ありすぎてどうにかなる。ああー、いつも呼び捨てにしてくれてもいいんだけどなー。でも俺のリーザ、奥ゆかしいからなー。そこがまたいいんだけど、ベッドの中でだけはずっと呼び捨てにしてくれないかな。ベッドの中で呼び捨てにされるときのあの、あれ。あれは本当に、くーっ、たまんない、思い出しただけで」 「へぇー……」  ウェザイルはそれを死んだ魚の目をして聞いた。  ※ ※ ※  ある日の夕食後、シメオン家の忠実なる執事長、ベラム=ノードウィッチは、主人の弟にあたるウェザイル=シメオンの自室を訪れていた。  白髪にきちんと整えた髭、薄いレンズの眼鏡。白い手袋に、少しも乱すことなくきっちりと着込んだ服。上着の内ポケットから、ベストのボタンに懐中時計のチェーンが伸びている。少しいびつな蝶の形のチャームがついた、趣味のよさが窺えるシルバーの鎖だ。年のころは五十過ぎ、歳相応に落ち着いた雰囲気がある。 「……はい、これで結構です」  ベラムはそう言って、巻尺をしまった。  ウェザイルは、広げていた腕を下ろし、ベラムに向き直る。 「今度はあまり派手じゃないのがいいな……。ミラルが仕立てると、すごくこう……ひらひらでキラッキラになるから……」 「ウェザイル様は華やかなお姿をしていらっしゃいますから、華々しいご衣裳もお似合いですが」 「いや、悪夢だよ……」  そう言ってウェザイルは半笑いになった。  そんな彼はすらりとした長身に、整った顔立ちをしていた。ややきつい目つきをしているが、その親しみやすい表情がそれを和らげている。  彼が長身なのに比べて、ベラムはその頭二つ分も低い。もとよりあまり背が高くないのだが、背の高いウェザイルと並ぶと、その対比が顕著だ。 「かしこまりました。ウェザイル様はレースをお望みでないとミラルに伝えておきましょう」  ベラムはそう言いながら、手帳に先ほどの巻尺で採った数値を書き入れた。  ベラムがウェザイルの自室を訪れたのは、採寸のためである。古くなったコートを近々新調するためだ。用もなく訪れたわけではない。  ただ、採寸自体は、ベラムの直接的な仕事ではなかった。どちらかというと、これは被服を担当する使用人──たとえば先ほど名前が出たミラルの仕事だ。  その仕事を、執事長の肩書きを持ったベラムが引き受けているのにはわけがある。他の使用人がこの仕事を嫌ったわけではなく──  ベラムは手帳をしまって、ウェザイルを見上げた。 「それでは、採寸した旨をミラルに伝えて参りますので」 「えっ」  ウェザイルが驚いて声を上げる。  ベラムは、眼鏡のフレームを指で触って位置を正した。 「早いほうがミラルも助かりましょう」 「い、いやいやいやいやいや」  ウェザイルがベラムの腕をつかんだ。 「もう帰るの? 本当に採寸しにきただけじゃん。おかしくない? おかしい。絶対おかしい」 「そ、そうは言われましても……」  ベラムは言葉と表情に困って、あいまいに目をそらした。  確かに、採寸の仕事を引き受け、ウェザイルの部屋にきたのは、仕事をこなすためだけではなく──  腕をつかむウェザイルの手に力が入った。引き寄せられると感じた瞬間、ベラムは反射的に手袋を嵌めた手をウェザイルの胸について、それを遮った。 「い、いけません、こういうことは」  ウェザイルの手から一瞬、力が抜ける。ハッと彼を見上げれば、彼の顔が少しこわばっていた。目が合うと同時に、彼はこわばった顔を気安そうな笑顔に変えた。 「冗談だよ」 「ウェザイル様……、」  何かを言おうとしたが、何を言えばいいのか分からない。ためらっているうちに、ウェザイルの手が離れた。  ウェザイルの表情は、気安い笑顔から変わらない。 「ベラムは忙しいから仕方ない。早くミラルのところに行くといいよ。ていうか、レースだけじゃなくて、刺繍もほどほどにって伝えといてくれない? 特に、花柄の刺繍とかやめて。あれかなり恥ずかしい」 「ウェザイル様、わたくしは」 「いや本当。うん。……ええと。……その、気にしないでいいから」  はは、とウェザイルが笑う。  ──この人のこの笑い方は、よくない笑い方だ。  ベラムは、ウェザイルの腕に手を伸ばそうとして、やはりためらった。一介の使用人が、主筋にみだりに触れていいはずがない。許されない。  ただ、でも。  ベラムは指を強く握った。  採寸の仕事を引き受けたのは、……彼に会うためだ。わざわざ願い出て、この仕事を譲ってもらった。それもすべて、彼の顔を見たかったからだ。  使用人として、主筋の部屋に用もなく訪れることは、控えるべき行為だとベラムは思っていた。ウェザイルとの関係が特別なものになってもなお、ベラムはその線を忠実に守っている。  特別なもの──そう、使用人の立場でありながら、ベラムは主人の弟であるウェザイルと特別な関係になってしまった。強要されたわけではない。流されてしまったわけでもない。ベラムが望んで、ウェザイルとの関係を結んだ。  そのことに関しては、ひとつも後悔していない。ただ──かといって、ウェザイルの温情に甘え、使用人としての分をわきまえない行為をすることはどうしてもできなかった。ベラムが使用人から逸脱することは、ウェザイルもたぶん、望んでいないのではないかと思う。 「ウェザイル様……」 「……困らせてごめん。……ベラム、べたべたするの好きじゃないしね。知ってた」 「そんなことは……」  ごめんごめん、と笑うウェザイルを見ていられない。だが、そもそも、こんな笑い方をさせたのは、自分だ。無理無体を通すような彼でないことはわかっているのに、ここというときに拒絶した。  彼は、常に周囲に気を使う。  それは、友人や家族だけではなく、使用人に対してもだ。もっと上から、強引に押し通してもいいものを、彼は生来の優しさで自分をあっさりと曲げてしまう。  いけない流れだ、とベラムは感じた。  彼が何事もなかったかのように自分を折り曲げるのを、見たくない──  ベラムは、失礼しますと一言だけ小さく断りを入れてから、手袋をした手でおずおずとウェザイルの腕に触れた。 「ベラム……?」  ウェザイルが声を潜めて、問う。  ベラムは視線をそらして、眉を寄せた。 「あまり──夜も更けぬうちから、わたくしのようなものに戯れかけられますと、よくない評判が立ちますので。ウェザイル様の評判を落とすようなことは、したくありません。それがわたくしごときのせいならば、なおさらでございます」 「…………」  小さなため息が聞こえた。  腕に触れていた手を、ウェザイルが握った。 「……うん、……そうだね」  ウェザイルがベラムの手袋を嵌めた指に唇を寄せる。それから、手の甲へキスを贈る。  ベラムは見ていられなくなって、憂鬱な顔をして目を伏せた。  一介の使用人ごときに、この方がここまでしていいものか──  だが、振り払えないのは、自分の中に喜びがあるからだ。これが一番、許されないもののように思える。自分のような老僕が、主人のうら若い弟を誑かして許されるものか。  罪深いのに、振り払えない。これでは、きっと、神も許してはくれない。 「でも、おれがベラムなしだと本当にだめ男になるのは、屋敷のみんなが知ってるよ。ベラムが守りたい線は、おれも良く知ってる。だから、それは無理には侵さない。でもそれだと……、おれがすごく寂しいんだ。どうしたらいいと思う……?」 「ウェザイル様……」 「そこで考えたんだけど──」  指の一本一本、その形を確かめるようにウェザイルが握った手に改めて触れる。手袋の上から、爪の形を確かめるようにされて、ベラムは反射的に息を呑んだ。年甲斐もなくうつむいてしまう。……この歳になって、これでは情けない。分かっているのに、ウェザイルが美しい女性を口説くように、自分を扱うから。  ──何もかもが妙な方向へ向かってしまう。 「解決案として──そうだね、ベラムからおれをベッドに誘ってくれればいいんじゃないかな?」 「ウェザイル様」  ベラムは顔を上げた。ウェザイルの目が笑っている。冗談だとすっかりその表情が語っていた。  ──本当に、この方は。  ベラムは眉を寄せて、顔を伏せて苦笑した。 「……年寄りをからかうのはおやめください」  小さくため息をついて、ウェザイルから身体を離そうとする。しかし逆に握られた手を強くとられて、指を絡められた。なでるようにして、ウェザイルの手がベラムの白い手袋を乱す。袖口と手袋の間に覗いた素肌に、ウェザイルはキスをした。 「ウェザイル様! 本当に、からかうようなことは──」 「残念。本気だよ」  ウェザイルは言いながら、ベラムの手袋を取り払った。素肌の手の甲にキスをして、指をちろりと舐める。 「ベラムは快く思わないだろうけど、おれは自分の評判を落とそうが、悪い噂がたとうが、どうだっていいんだ」  指と指の間を舌でくすぐられて、ベラムは反射的に手を引こうとした。しかし、ウェザイルはそれを許さず、逆にベラムの小柄な身体を抱きすくめるようにして抱えあげた。 「っ……お戯れは……!」 「お戯れでこんなことできる男に育ったと思う?」  耳元で囁き尋ねられて、ベラムはウェザイルの顔を間近で見つめた。彼の黒い瞳が声の調子の割りに真摯なのを見て、目をそらす。……見詰め合って、敗北してしまう。 「……それをわたくしに尋ねるのは、いささか意地が悪くはありませんか」 「そう?」  言いながら、ウェザイルはベラムを抱えたまま、近くの壁にその背を押し付けた。ガタン、と壁に飾った絵の額縁が震えた。息をつく間もなく、ウェザイルに唇を求められる。  ──ああ、だめだ。分かっていながら。  彼の吐息を感じると、自分で自分がどうにもならなくなる。  ベラムは、何もかもに負けて、手袋をしたままのほうの手を、ウェザイルの頬に添わせた。引き寄せるよりも早く、ウェザイルが顔を寄せる。背中に硬い壁の気配を感じながら、口をわずかに開く。 「そんなふうに……、求めるようなものではない、でしょう……」  この老身のどこに、彼をこうさせる要素があるというのだろう。ただの年老いた貧相な体だ。それを、こんなふうに飢えたように求めるものでもない。……若い女や若い男ならまだしも。  かすかに開いたベラムの唇に、ウェザイルの唇が重なる。ついばむように何度も深く交わって、舌を絡めあう。彼の熱い舌が口腔深くを探れば、そのたびに後頭部が壁に当たった。それに気がついたのか、彼は手のひらでベラムの後頭部を包むように支えた。  ──その優しさが、たまらない。  ベラムは彼の頬に触れていた手を、彼の背中に回す。両腕で抱きしめるようにすると、ウェザイルからのキスがさらに深くなった。眩暈を呼ぶような、圧倒的な応酬。 「……っ、……、ウェザイル様、」  知らず知らずのうちに抱きしめた背中に力が入る。吐息交じりの彼の呼吸が、ベラムの丁寧に揃えた口髭を震わせた。ひどく吐息が熱い。  何もかもがもどかしいというように、彼は大きく呼吸を乱して、さらに強くベラムの小柄な身体を壁際に追い詰めた。  額と額をつけて、鼻先を触れ合わせる距離で、吐息交じりの睦言。 「これが、許されないことだとは、おれは、思ってないから」  ベラムの眼鏡のブリッジに唇を押し当て、彼はベラムのベルトのバックルに手を伸ばした。 「ウェザイル様」  ベラムは彼のその手に自分の手を添えた。無体をとがめられるのかと動きの止まった彼の手をよそに、ベラムはベルトを外した。  たがが外れるのは、一瞬だった。  ウェザイルが息をつく間もなく、ベラムのベルトをつかんで引き抜く。ベラムはその間にズボンのフックを外した。前をくつろげようとするのを、もどかしいと非難するようにウェザイルの手が伸びてくる。少し荒っぽい勢いで、ズボンの中、さらには下着の中に手のひらが滑り込む。 「っ、」  尻の割れ目を指先でなでられて、ベラムは思わず息を詰めた。驚いて身を固くしたのを、ウェザイルはおびえていると解釈したようだった。はっきりとした息遣いのままで、唇をベラムの耳元に寄せた。 「好きなんだ、」  吐息が耳をくすぐる。唇が押し付けられるのを感じる。呼吸すら熱っぽく、言葉すら覚束ない。  ベラムはうつむきがちに、ウェザイルの胸に手をついた。年甲斐もない。恥ずかしい。情けない。  ──こんなに。 「ベラム、」  ウェザイルがすがるような声音になる。彼は、未だにベラムが逡巡していると思っているのだろう。壁際に押し付けられるようにして、抱きすくめられる。

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