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番外編:菫のポメガバース(第3話)

「まだ、草薙(くさなぎ)、ポメラニアンのままなのか」  再び大学食堂のテラス席で、柳沢(やなぎさわ)は目を丸くした。 「……ああ」  心なしか(けい)の口も重い。恋人がポメガバースを発症してから、もう十日も経っている。しかも、柳沢のアドバイスを踏まえ、(すみれ)が人間だった時のように接し、これでもかとばかりに溺愛しているのに、今も菫はポメラニアンの姿のままなのだ。  しかし、心配で眉をひそめている恋人をよそに、当の菫は機嫌良さそうにキャリーバックの中で犬のおやつを頬張っている。 「圭。あのさぁ。すごい言いづらいんだけど、もし草薙がこのままずっとポメラニアンの姿だったら、どーすんの?」 「どうもこうも無いよ。俺は菫の彼氏なんだから、面倒見続けるよ」  奥歯に物が挟まったような口振りの柳沢に、圭は憤然と即答した。柳沢は、圭の毅然とした物言いに一瞬言葉を失ったが、ためらいがちに言葉を重ねる。 「俺の杞憂なら良いんだけどさ。ポメラニアンの寿命って、長くて十五、六年くらいのはずなんだ。たぶん、今は犬なら一歳ぐらいだと思う」  自身も犬を飼っている柳沢の懸念に、圭は言葉を失った。 「そんな……、まさか……。俺が三十五歳ぐらいの時に、菫は寿命が来ちゃうってこと?」 「元が人間だから、人間と同じ寿命なら良いんだけど」  親友を慰めるように、柳沢は希望的観測を口にした。だが、圭の頭の中は、自分がアラサーで、犬の姿のままの大切な恋人を失うことで一杯だ。その後生返事を繰り返す圭に、『今日は講義もオケの練習も休め』との助言に従い、ピンクのキャリーバッグを背負って、とぼとぼと帰宅した。  キャリーバッグから出てきた菫は、状況を理解しているのかいないのか、笑顔でご機嫌だ。尻尾を振って、構ってくれとしきりに圭にアピールを繰り返す。最初は求められるままに撫でてやったり、おもちゃで遊んでやったりした圭だが、耐え切れず、菫の脇の下に手を入れて抱き上げ、顔を見ながら切々と訴えた。 「なぁ、菫。俺はお前がポメラニアンの姿のままでも、一生傍にいるよ。だけどお前がポメのままだと、あと十年ちょっとしか生きられないかもしれないんだぞ? 俺まだアラサーなのに、俺を置いていっちゃうのかよ。ひどいよ菫。  頼むからさ、人間に戻ってくれよ。俺、お前と、じいちゃんになるまで一緒にいたい。  ……それにさ。ポメもモフモフで可愛いけど、俺、もう一遍、人間の菫を抱きしめたいよ。人間の菫にキスしたい……。  俺が嫉妬深すぎたのとか、菫に対する思いやりが足りなかったのは、今後改めるから。お願いだから人間に戻ってくれよ、菫……」  圭の頬を濡らす涙を、菫がペロペロと舐めて慰める。  菫の表情は変わらず、必死の訴えが通じているのかは分からない。圭は溜め息をつくと、今やルーティンとなった流れ――夕飯、お風呂、ドライヤーをしてグルーミング――をこなした。  圭が勉強している間、菫は大人しくベッドで待っている。圭が机から立ち上がると、一緒に寝てくれる時間だと、嬉しくて菫は立ち上がり、笑顔で尻尾を振る。そんな菫の姿に複雑な笑みを浮かべながら、圭は服を脱ぎベッドに潜り込んだ。 「俺さ……、もう一遍、菫とエッチしたかったな。最後の時は、喧嘩の後だったから、自分に縛り付けるような、自己中な抱き方だったんじゃないかって。もっと菫に優しくしたかった。あれが最後なんて、あんまりだよ……」  菫を腕に抱き締め、流れ始めた涙は止まらなかった。泣きながら圭は眠りについた。  翌朝、圭は左肩に重みを感じて目を覚ました。ふわふわの毛が乗っているのは、ポメだろうが、こんなに重かっただろうか?  ふと、左肩を見ると、そこには愛しい菫が、人間の姿ですやすやと寝ているではないか。鳶色のふわふわの癖毛。長い睫毛。身体つきはすっかり精悍な青年になったのに、未だに丸みを帯びていて幼さを残す頬。キスをねだるように軽く尖る唇。  驚愕と感激で、ひゅっと息を呑み、圭は、目を大きく見開いた。ただ、まだ眠っている恋人を起こしたくないと、咄嗟に、叫び声が出そうになった口を右手で押さえる。  これは夢か。いや夢じゃないよな。この寝顔は菫だよな? どこも前と変わってないよな?  彼の脳内はそんな独り言で忙しい。心臓はバクバクと激しく脈打ち、抑えようと努力しても、震える吐息が漏れてしまう。呼吸の乱れと身体のこわばりに、圭の肩に頭を預けていた菫が眉をしかめて身じろぎした。 「んっ……。ふぁ、あれ? 圭先輩! あっ、僕、人間に戻ってる!」  戸惑った表情で自分の顔や髪を触り、指先をかざして確かめる菫の声は、興奮で上擦っている。いつも通りの菫の言動に、胸が熱くなった圭の目からは涙が一気に噴き出した。 「すみれー! 良かった、もう人間に戻ってくんないのかと思って、俺、俺……」 「心配かけてごめんね」  恋人たちは、裸のままベッドの中で再会の喜びを分かち合う。 「ところで、なんで急にポメラニアンになっちゃったの? 行き違いとか喧嘩はしたけど、仲直りしたから、もう菫との間にはわだかまりは無いと思ってたから、俺、それもショックだったんだ」 「うーん。なんでかは僕にもよく分からない。仲直りするまで、けっこうストレスだったんだ。仲直りできて、ホッとして、どっと疲れが出たのかなぁ」 「しかも、なかなか人間に戻ってくんないし。俺の愛情が足りないってみんなに責められて、針の(むしろ)だったよ」 「あー、それはホントごめん。チヤホヤしてもらえるのが楽しくてさ。そろそろ戻っても良いかなーって思ってたんだけど、僕も初めての発作? だったから、戻り方もわかんないし」  腰のあたりに何か当たっている。違和感を覚え、菫はそこに手を伸ばした。 「……もう。この状況なのに、なんで盛ってるの」  自分の身体に触れている、勢いづいた圭の分身に、菫は懐かしい嬉しさと気恥ずかしさが入り混じった表情を浮かべ、頬を赤らめた。 「や、だって。人間の菫が戻って来た! と思ったら、嬉しくて。  ……おかえり、菫」  圭も、興奮と照れが入り混じった表情だ。優しく口付けながら、合間に、甘えるような声で囁く。 「なぁ。学校、明日から行きなよ」  菫は、言葉の代わりに、圭の首に腕を回して、甘いキスで応えた。 (確かに、恋人の扱いがちょっと雑かもって思った時は、ポメになるのも悪くないかも)  すっかりポメガバースの味をしめた菫が、以来、事あるごとに可愛いポメラニアンに変身することになったのは、むべなるかなと言うべきだろう。

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