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第187話 思いがけない訪問者

あの日の僕の名を呼ぶ声が耳にこびり付いて離れない。 僕は確かに聞いた。 僕の名を呼ぶ彼の声を。 間違いなんかじゃない。 空耳でもない。 あれは確かに彼の声だった。 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し聞こえた僕の名前。 きっと僕に気付いて電車を飛び出したんだ。 でも何故? 先輩には大切な人が居るんじゃないの? 電車を飛び出して大丈夫だった? 僕があそこに居たのが分かったの? 僕と同じように彼にも僕の匂いがしたのかな? 先輩といた女性、凄くステキな人だったな…… 先輩は今幸せ? あの人はちゃんと先輩を愛してくれている? 思いは色々とめぐるけど、 何の解決にもなっていない。 何の解決にもなっていないけど、 何もできないまま、何もしないまま、 既にあの日の出来事から数ヶ月が過ぎていた。 そして気付けば、何時の間にか暑かった夏も終わっていた。 体調こそ壊してはいなかったが、 僕はあの日から余り食べれず、また眠れていない。 それにあの時起こった事をまだ誰にも相談していない。 でも思いは止め処なくループしている。 “ダメだ,僕はこうして一人で悩むために 日本に帰って来た訳じゃない!” そう自分に言い聞かせても、 まだ心の整理が出来ないでいた。 人は苦しい状況でも 時が止まってしまえばと思うらしい。 幸せの絶頂に居る時は、 何度もこのまま時が止まればと思った。 でも今は苦しい中でいっそこのまま 時が止まってしまえばと思ってしまう。 でもそんな状況でも陽は毎朝上る。 無理を承知で僕は出来るだけ佐々木先輩の事を 考えないように毎日を過ごしていた。 そんな中、僕は明日から開かれる個展の準備で 目の回る様な忙しさに駆られていた。 そこには数週間ぶりに会う矢野先輩もいた。 その日は朝いちばんに矢野先輩に会うと、 先輩は束さず僕の所へきて、 「ねえ、また一人で悩んでない? 最近少し痩せたんじゃ無い? ちゃんと食べて眠れてる?」 と尋ねて来た。 僕の事に対しては先輩は鋭い。 ずっと僕の事を気にかけて心配し、 応援してきた先輩には、 “実は佐々木先輩を見かけて、 他の女性と結婚していた事を知りました” とは到底言えない。 「大丈夫ですよ! きっと、個展の事で頭が一杯で 緊張の日々が続いているから、 そのせいだと思いますよ」 カラ元気でそういうと、 「要君、高校生の時、僕がよく口を酸っぱくして言った事覚えてる?」 と、矢野先輩は返して来た。 僕は先輩を見つめた。 今でもどういう風に相談すればいいか分からない。 と言うよりも、佐々木先輩に伴侶がいた今となっては、 どうする事も出来ないことを 今更相談するのは価値ある事なのか? 先輩が幸せな結婚をして居るんだったら、 これ以上何ができるんだろう? 彼らの姿は何処からどう見ても幸せな夫婦の構図だった。 どこをどうとっても、 政略結婚には到底見えない。 彼らの邪魔をして、 彼の伴侶から夫を、 彼らの赤ちゃんからパパを、 運命の番だからというだけで、 僕のわがままだけで奪う事はできない。 それに彼の元を去ったのは僕の方だ。 それも7年間も! 先輩の元に帰りたい…… 今更それは虫のいい話なのかもしれない。 僕は矢野先輩の目をしっかりと見て、 「先輩に隠し事はするなでしょう? 分かってますよ! 隠し事は無いですけど、 ちょっと自分で調べたい事があるので、 結果がわかったら教えますね」 そう矢野先輩には伝えた。 矢野先輩は僕の答えに納得できないのか、 分かったと言いながらも、 今日は一日中僕の方をチラチラと見ていた。 でも相談するにも、本当にどういう風に説明したらいいか 全然わからなかった。 僕はまた間違いを犯しているかもしれない。 でも、今よりも状況が悪くなる事はきっと無いだろう。 今は個展に集中しようと思った。 そして個展が終わったら、 もう一度あの路線で先輩を待ち伏せしてみようと思った。 もし、先輩にとって、僕達の事が過去であれば、 僕のこの思いを終わらせようと思った。 うまく会えるかは分からないけど、 やってみる価値はある。 それから、失恋したらしたで、 上手く行ったら上手く行ったで、 その旨を先輩に報告しようと思った。 僕の個展は1週間開かれる予定だ。 場合によっては延長もされるらしいけど、 僕の場合今の所は1週間だけとなっている。 だからこの1週間が勝負だ。 じっくりと作戦を練ろう。 そう決心した。 まさか1日に目にして、 あんな事が起ころうとは知りもしないで…… 個展が開かれる1日前には、 家族ご招待で、僕の両親、祖父母、陽一が見に来てくれた。 陽一は相変わらず矢野先輩大好きで、 僕の絵よりは、 矢野先輩に会えた事の方が嬉しそうだった。 何を置いても、 「矢野先輩、矢野先輩」 で、見ているこっちが恥ずかしくなるほどだ。 矢野先輩も満更では無さそうで、 僕に挨拶するよりも先に陽一に駆け寄って行く。 「矢野先輩は遊びで来てるんじゃ無いんだよ」 と陽一に言っても矢野先輩の手前、余り説得力は無い。 それに矢野先輩の陽一に対する激甘な所は健在で、 陽一もここぞとばかりに矢野先輩に甘えまくっていた。 僕はあの日陽一の言った “矢野先輩から良い匂いがする” を、陽一との約束通り矢野先輩には伝えていない。 それに肝心の矢野先輩の方からは、 陽一に対しての匂い云々は何の報告もない。 二人が抱き合う姿を見ながら、 “陽一の第2次性が判断するころには何か変わるのだろうか?” などとぼんやりと考えていた。 僕達は中学校一年生で第2次性検査が行われた。 恐らく陽一もその頃には分かるだろう。 でも今は自分の事が先だ。 勿論陽一は大切だけど、 自分が幸せでないと、 陽一を幸せにすることは出来ない。 まずはこの個展を成功させて、 佐々木先輩とのことを完結させなければと思った。 両親、両祖父母とも、僕の成長をとても喜んでくれた。 お父さんなんて何時ものごとく、 僕の絵を買い占めると駄々を捏ねていたけど、 お母さんに勇められて引っ張って行かれた。 両親、両祖父母に一通り館内を案内した後は、 明日の初日を待つばかりとなった。 そして個展第一日目がやって来た。 会社が大々的に宣伝をしてくれたので、 滑り出しは好調だった。 それに、社会科見学と称し、 小学校の団体様の予約も入っていた。 子供達に色々と絵の事を説明するのは楽しい。 中には将来漫画家になりたいと言う子は居るけど、 画家になりたいと言う子はほとんどいない。 いつか、僕の絵を思い出して、 画家になりたいと思ってくれる基になってくれると嬉しい。 また初日には青木夫妻がやって来てくれた。 彼等は、新しい絵がカフェに欲しいと、 数点予約をしていってくれた。 絵画は個展が終わり、 引き渡しとなる。 今回の個展は、 全ての絵画に値が付いている。 決して安い買い物では無いけど、 青木君たちの好意が嬉しかった。 青木さんは、 「いつか僕が大画家になった時良い値が着くかも」 と何時ものように、お茶目に言って笑っていた。 他のお客様の相手もしなくてはいけなかったので、 青木君たちとも余り話すことは出来なかったけど、 忙しい平日の中やって来てくれて凄く嬉しかった。 僕の絵画の半分ほどは初日に予約がついてしまった。 思ったよりも 反響が良く、これも矢野先輩の マーケティングの腕前なんだと感心した。 そんな矢野先輩の手腕に感心をしていた 一日目もあと5分で終わろうとしていた時だった。 矢野先輩はミーティングがあると、 少し早めに会場を後にした。 展示場の人も大分少なり始め、 他にも助手などついていたので、 残りの時間は矢野先輩無しで大丈夫と、 僕はファンになったと言う人と話をしていた。 そんな時、展示場のドアが開き、 最後の来客であろう人が入って来た時、 僕の心臓が脈打ち始めた。 ドキン…… ドキン…… ドクン…… ドクン…… え? どうして動悸が…… 体の震えまで覚え始める。 ちょっと待って…… この匂いは…… 紛れもないこの匂いは数か月前に駅で嗅いだあの匂いだ。 それとこの7年間一度たりとも忘れられなかった あの人の香り…… 僕はスローモーションのように後ろを振り向いた。 まさか…… まさか…… 振り向いた僕の目の中に飛び込んできた、 ドアの前に立っていた人物は 紛れもない佐々木先輩自身だった。

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