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第186話 言葉に出来ない
思いがけない匂いに硬直してしまった体を
無理に動かすと、途端に手が震え始め
た。
目を動かし当たりの気配を探る事さえも
躊躇してしまう。
果たして自分のいる状況は現実なのだろうか?
思考回路まで混乱している。
“なぜこんなところで?
電車で移動してるなんて……”
僕はまた立ち止まって、
空を仰いで空気の匂いを嗅いでみた。
“間違いない!
この匂いは……”
忘れもしない、
僕を優しく包み込んで
夢の中へと誘ってしまうようなこの匂いは……
僕は思い切って匂いがしてくる方を見て、
それを放つ人物を探した。
“何処? 何処から……?”
目の前には行き交う人だかりで、
僕の周りにはそれらしき人は見当たらない。
何処……
段々泣きそうになる。
僕は夢を見ているのだろうか……?
いや、違う……
行き交う人たちのぶつかる肩の痛みが
これは現実だと思い知らせる。
何処……?
何処にいるの……?
キョロキョロとあたりを見回しながら
闇雲に匂いを追って歩きまわった先に、
他の人よりも頭ひとつ分飛び出た人物を見つけた。
“あ……”
一目見て一瞬で時間が戻されてしまう。
忘れもしないあの後ろ姿。
心臓が早鐘の様になって
息が苦しくなる。
“あの後ろ姿は……!
間違いない!
彼だ!
信じられない……
信じられない……
何故ここに……?
電車を使っているなんて思いもしなかった……
こんな所で会えるなんて夢にも思わなかった!”
僕は彼に見つからないように咄嗟に彼の後を追った。
彼の後ろ髪がピョンピョン跳ねている。
“そうだ、あの寝ぐせ!
全然変わってない!”
高校生時代、
最後のインハイを追えて髪を伸ばし始めた先輩は、
「髪をセットするのが苦手だ」
そう言いながら、何時も寝ぐせに手を置いて、
はにかみながら笑っていた。
高校生の時の記憶が走馬灯のように甦って来る。
初めて出会った日、
初めて言葉を交わした時、
彼に追われた日々、
初めて彼のことが好きだと自覚した瞬間、
彼のことが好きで好きで、
この世の何に変えてでも彼を愛して続けると誓った日……
何故僕は彼の元を去ることができたのだろう!
もしあの日に帰れるのなら……
イヤ、そんなことできるはずはない……
時間は二度と元には戻らないのに!
僕はそっと彼の後を追った。
相変わらずあの優しい香りは僕の鼻を突いて来る。
彼が階段を上がってホームの方へ降りて行くと、
僕も後に付いて階段を駆け上がり、
ホームに下りた。
彼が下りた先のホームには、
もう既に電車が入って来ていた。
彼がもうすでに来ている電車に乗り込むと、
僕も使う路線では無かったけど、
咄嗟に同じ電車に飛び乗った。
それと同時に発車ベルの音が鳴りドアが閉まると、
電車は静かにゆっくりと動き出した。
僕は、すみません、すみませんと人混みを分けて
彼に近づいた。
そしてドキドキとしながら、
人の群れの間からチラチラと彼を盗み見した。
まだラッシュアワーには早いので、
人は多くても、
動けないと言うほどではない。
でも、隠れて彼を監察するには十分だ。
人の陰に隠れて彼を盗み見すると、
僕だと気付かれずに奇麗に彼の姿を捉える事が出来る。
後ろからだと彼の顔が見えない。
“見たい……
彼の顔が見たい……”
僕は何とか彼の顔が見えないかと、
少しずつ少しずつ彼に近ずいて行った。
“大丈夫だ。
まだ気付かれていない”
ドキドキとして、思考が旨くまとまらない。
大分近くまで近付いてしまった。
でも先輩はまだ僕に気付いていない。
その時先輩が不意に横を向いた。
“あっ…… 横顔が……
胸が高鳴りその横顔をとらえた僕の瞳が訴えた。
やっぱり佐々木先輩だ……”
はにかんだ様に笑う変わらないその笑顔に
僕は釘付けになった。
懐かしいその横顔に、
咄嗟に7年前の記憶が甦ってくる。
“先輩……
佐々木先輩……
僕はここだよ。
僕の存在を感じれる?
僕は戻って来たんだよ。
まだ僕の事覚えてる?
先輩、思ったよりもスーツが似合うな。
髪型ちょっと変わった?
でも寝ぐせは相変わらずなんだな……
少し痩せたな。
いや、筋肉が落ちたのかな?
今どうしてるの?
夢に向かってちゃんと進んでる?”
懐かしさで込み上げてくる涙をグッと堪えた。
“どうしよう?
声を掛けるべき?
でも何と言って声を掛けたら……
久しぶり?
それとも……
僕の事覚えてる?
どうしよう? どうしよう?”
そして僕は気付いた。
吊り皮を握りしめる先輩の左手薬指に愛する人のいる印。
“えっ? 指輪?
それって……
いや、もしかしたら、
政略結婚の末からかもしれない。
まだ分からない。
まだ分からない。
僕はまだ大丈夫!”
咄嗟の目に入った情報に、
僕は自分にそう言い聞かせた。
その時、先輩の向こう側から、
先輩の陰に隠れていた人が露わになった。
“あの人は……”
そこには可愛らしい女性が赤ちゃんを抱っこ帯に抱え、
先輩と嬉しそうに話してる姿があった。
そして先輩の笑みも満点で、
心なしか,手で彼女の背中を支えて、
彼女をサポートして居る様にも見える。
よく見れば、先輩の肩にはおむつバッグが……
ヤッパリそうなの?
買い物に出た奥さんと落ち合って一緒に帰ってる?
僕は頭が真っ白になり、
その場に居るのがいたたまれなくなった。
脱力感が襲ってきて、その場に座り込みたかった。
“何故……?
もう遅いの……?
ダメなんだったら何故このタイミングで……!
これが一度諦めた運命の番の行く末なの……?
そんなのってある?
これが僕に与えられたバツなの?!”
早く、早く次の駅に着いて!
直ぐにでも走り出したい衝動にかられながら、
僕はそっと先輩から離れた。
今は只、先輩から早く離れたかった。
頭を整理したかったけど、
とてもそれどころではない。
泣きそうになるのを堪えて
先輩から死角になる
下り口のドアに近いところに立つと、
ポールをしっかりと握りしめた。
握りしめた指に力が入り、
血の気が引いていく指が段々と真っ白になって行く。
僕が真っ白になって強張る指をゆっくろと動かし、
開いたり閉じたりしている内に
隣の駅に着いた。
僕の心は逸った。
“早くドアを開けて!”
いまだに強張った指を握り閉めてドアの前に立つと、
ゆっくりとドアが開いた。
その間が永遠のように感じる。
“早く! 早く!”
僕はドアが開くのと同時に急いで電車から飛び降りると、
人混みをかき分けながら走って階段を駆け上った。
その瞬間、遠くの人混みの中から、
「要!」
と僕の名を叫ぶ様な声を何度も聞いた様な気がしたけど、
僕はそれを無視して走り続けた。
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