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 俺の名は蓮見亨治(はすみこうじ)。私立杏ヶ森学園高等部に勤務する古典教師だ。  この学園はお坊ちゃんが集まる男子校だが、京都府内山林地帯の長閑な立地のおかげか、それとも由緒正しい家柄の子息が多く在籍するおかげか、随分とのんびりした校風の高校だった。  だった。そう、過去形である。  山奥で標高も高いせいで周辺都市部から少し遅れて満開を迎えた桜に囲まれる4月現在。  生徒会も風紀委員も例年の仕事ぶりが嘘のように機能を果たせていない中、外面だけはまともに繕った入学式が行われ、現在俺はピークを超えた疲労からくる眠気を抑えつつ式の進行を担っている。  それもこれも、2月という超中途半端な時期にやって来た転校生に全校の名だたる役員や人気の高い生徒たちが陥落してしまったのがいけない。  この際、陥落でもなんでも良いから仕事だけはしてくれ。切実に思う。  別に学校運営に関わるような大事な仕事を任せているわけではない。王道学園のように溜まった仕事で生徒会に唯一残った会長がぶっ倒れる、なんてことが起こるほど負担を強いているわけではないのだ。  とはいえ、生徒主体の行事進行については教職員もサポートまでしかできないし、入学式には在校生代表としての挨拶をはじめとして多少の学生生活に関わる諸連絡事項があって、その時間枠は生徒主導だ。  入学式にその生徒主導枠をもぎ取ったのは俺が生徒会長をしていた時だったから、それなりに思い入れもあるしな。  そんな個人的事情もあって、俺が一人残らず陥落した生徒会にかわって生徒会顧問として生徒会の仕事をほとんど片付ける羽目になった。挨拶をする必要がある生徒会長をやっと捕まえて事前の打ち合わせができたのが昨日のことだ。  ただでさえ春休みの教職員は激務だというのに、ホント冗談にも程がある。  入学式の式次第は例年変わらない。在校生を含む学生に三々五々集まってもらい、学園長挨拶、君が代斉唱、校歌披露、新入生代表挨拶、生徒会長挨拶、来賓挨拶、理事長挨拶の流れになる。入学式が終わると、入学式に参列された父兄に退出いただき、その流れで生徒会主導による新入生歓迎会が開かれる。ここで、各部活動紹介が行われる手筈だった。  俺の苦労は正にここ。新入生歓迎会のスケジュールを組み、紹介者を募り、司会進行などの手配をする。今年は部長クラスが何人か転校生に奪われてしまったため、連絡を付けるだけで一苦労だった。部活動紹介については期日内に申請しなければ紹介枠を与えないと半ば脅してなんとか間に合わせた。  司会も照明や音響も放送部に丸投げできたのが、大変助かった。放送部部長がアンチ嫌いの腐男子だったおかげだ。  まぁ、そのかわり余計な知識も増えたが。王道学園なんて知りたくなかった。  現在眠気を堪えながらぼんやりと回想なんてできているのは、3人のそれぞれ5分オーバーな来賓挨拶中だからだ。入学式の祝辞など誰が話しても似たり寄ったりで真面目に聞く気にならない。  やがて、締めの挨拶があって職員起点の万雷の拍手に自分も拍手を合わせる。そして、収まった頃を見計らって次の式次第に進めた。 「ありがとうございました。つづきまして、杏ヶ森学園理事長より挨拶をいただきます」  そういえば、今年度から理事長が変わるんだったな、となんとなく思い出しながら式次第を読み上げる。昨日の教職員会議で紹介があったそうなのだが、今日の準備で忙しくしていた俺は出席できなかったため、今日初めて姿を見る。  壇上では、先に挨拶していた来賓と入れ替わって新理事長が中央に進んでいく背中が見える。  後ろ姿からでも若いのが分かるスーツ姿の新理事長は、頼りなさそうなほど小柄だった。  その彼が壇上で正面を向いた、その瞬間。  俺はその人物を呆然と見つめる以外に術がなかった。 「……ゆす?」  俺の声が小さく聞こえた気がした。  彼との出会いは7年前。  かつては生徒会長をも務めた母校の古典教師として新卒採用された俺は、新人のため担任はなく副担任として3クラスに付くのとともに、生徒会長の実績を買われて生徒会顧問を押し付けられた。  そもそも卒業生なので学園のことはよく知っている。生徒会長を担っていたためその職務も把握している。そのため、断る口実がなかった。  その生徒会に秋の生徒会役員選挙で生徒会長に就任してやって来たのが当時1年生の彼だった。  生徒会長には大抵2年生で選ばれるものだが、彼は中等部で会長経験があったのと、1つ上の学年に相応しい人材がなかったための就任だった。  恋に落ちるのはあっという間だった。恥ずかしながらその年まで恋を経験したことがなかった俺には初恋だった。  そう、彼は元恋人なのだ。  勿論、俺は学生に手を出すつもりは更々なかった。今となっては言い訳にしかならないが、初めての恋はそのまま秘めて殺すつもりだった。  仕掛けられた逆レイプを和姦に持ち込んだ俺にはみっともなく言い訳するくらいしかできず、言い逃れはする気もあまりない。  彼の名は篠塚柚栖(しのつかゆす)。日本の鉄工業を中心に幅広く事業を展開する大財閥の本家に列する子息である。  上に二人兄がいてどちらもこの学園出身。長男は俺と同期の元風紀委員長だった。年子の次男は俺の次代生徒会長だ。嫌味なくらい有能な兄弟だな。  学園在学中はほとんど俺の部屋に住んでいたくらいべったりと寄り添ったプライベート時間を過ごしていたものだが、東京にある大学への進学を決めた彼とは卒業以来会うこともなかった。  気持ちが離れて別れたわけではない。いや、明確な言葉も介在していないし、厳密にはまだ恋人のままと言っても良いのかも知れないが。  卒業式の当日に4年待ってほしいと言われ、それから4年間音信不通になっていた。それが、彼だった。  誰かに何か言われたのか、在学中は生徒会長挨拶といっても簡潔に手短に話を切り上げた彼が、もう3分は話している。  いや、手元の時計が正確なら3分が経過している、というのが正しい。俺自身はその間放心状態でようやく意識が戻ったようなものだから。

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