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第1話

 蘇洸学園の理科準備室から、コーヒーの匂いがする。  理科教諭の藤代竜太郎のだめな日課の一つだった。理科準備室の、奥まったところで実験器具を使ってコーヒーを淹れるのは。  最近では慣れたもので、そのあたりで売っている缶コーヒーよりずっといい味のものを淹れられるようになってしまった。  藤代は、コーヒーの香りを楽しむように鼻を鳴らして、漏斗から滑り落ちてフラスコに溜まった深みのあるブラウンの液体を、黄ばみの浮いたカップに注ぎいれた。以前までは、このカップすらもビーカーを使っていたのだが、やはり持ち手のあるほうが使いやすいことに気づいてカップに変えた。ただ、洗うのが億劫で、使い終わった後は水ですすぐだけを繰り返したために、ところどころ黄ばんでしまっている。  カップに注ぎいれたコーヒーに満足げな顔をして、藤代は自分の席に戻る。やりかけの教材研究を早く区切りのいいところまで進めたかった。  少し個性的なフォルムをした丸眼鏡を指で押し上げながら、作りかけていた学習プリントを見直す。まあこんなところだろう、と藤代は最近富に悪くなった視力に目を細めながら一息つく。  少しよれた白衣と、アーガイル柄のベスト。やや落ち窪んだ目と白髪がちらほら見える髪。もともと若白髪が多かったが、今では四十の後半の歳に差し掛かりつつある。身長が男性にしては低いために、痩せ型の体型は一見して貧相な印象がする。  ──偏屈。頑固。人嫌い。  藤代の周囲の評価はおおよそこんな感じだ。これは生徒でも同僚でも大して変わらない。そして、その評価は大きく間違っていないと藤代は思っている。人と話す暇があれば自分のやりたいことをしていたいし、いちいち細かいことにこだわって融通が利かない。人と合わせることに大して重要性を感じてないから、傍若無人にも振舞う。教師という職業に就いていなければ、たぶん、山奥で隠居生活でも送っているんじゃないかとも思う。  実際に、藤代はかなり長く大学に残ってあれこれやっていた時期が長かった。蘇洸学園の理科教諭になったのは、ほんの十年ほど前のことだ。しかも、特に望んで教師になったわけでもない。ただ何となく、……そう、何となく、教師になってみた。何となくで十年ほど勤めているのだから、わりと自分は根が真面目なんじゃないかと藤代は思っている。  恐らく──  蘇洸学園の自由でおおらかな校風と規模の大きなところが、教師としてギリギリの社交性の自分を受け入れてくれたのだろう。しかも、蘇洸が男子校で、いろいろと気を使う女子生徒がいないのも要因の一つに違いない。  女嫌いではないが、女の気質にまったく迎合する部分がないのは藤代も自覚している。  一言で言えば、藤代竜太郎は白衣を着ているのもあいまって、典型的な「偏屈博士」だった。  その偏屈博士が、つい先ほど淹れたばかりの自慢のコーヒーを一口、味わおうとしたとき── 「藤代先生ー」  準備室の扉を開けて、一人の男が顔を出した。  紺のジャージをラフに着こなした男だ。体格が素晴らしくいい。盛り上がった胸板は、男らしい曲線を描いている。体もでかければ、声もでかい。太目の眉はキリッとしていて、意志の強さがはっきりと出ている。きっちりとした二重まぶたをした美丈夫なのに、真っ黒な短髪にはどこにもしゃれっ気がない。そればかりか、ジャージの銘柄も適当で、下に着込んだTシャツすらも白の無地だ。  藤代は、露骨にうんざりした顔になった。  玉井則幸。見た目の通りに体育の教師で、歳は藤代より随分下で二十の中ごろ……確か、二十四、五だったはずだ。藤代が典型的な「偏屈博士」なら、この玉井は典型的な「鬱陶しい感じの体育教師」だ。  鬱陶しい。……そう、藤代にとって、この玉井はこれ以上にない鬱陶しい存在だった。 「藤代先生ー?」 「……なんだね、玉井先生」  嫌々返事をすると、玉井は「やっぱりいましたか」と嬉しそうに笑って、大またで理科準備室に入ってきた。 「野島先生が、忘年会の出欠の返事まだかって──って、コーヒーの匂いがするなと思ったら、また淹れてたんですか。だめですよー、このへんにあるもの使ってコーヒー淹れるなんて。おなか壊しますよ」  藤代はうんざりした顔のまま、ため息をついた。 「君が腹を壊すわけじゃないからいいだろう。……コーヒーの話でとやかく言いにきたのかね」 「藤代先生のこと心配してると思って欲しいんですけど……」  玉井はハハハ、と笑って鼻の頭をかいた。それから、気を取り直したように続ける。 「野島先生が、来月の忘年会の出欠、早く出して欲しいって困ってましたよ。それを言いに来たんです。先生、また返事ほっといたんでしょう」  藤代はまたか、と胸中、大きなため息をついた。  そうなのだ。  この玉井は、あれやこれやとおせっかいを焼いてくるのだ。コーヒーをこんな淹れ方していたらおなかを壊すとか、行事後の打ち上げの出欠の返事を忘れているでしょうとか、本当に細かいことをいちいちと。何かのついでに言うならまだしも、こうやってわざわざ準備室までやってきて言う。  準備室にいるのは、職員室にいていろいろ人と接しなければならないのがわずらわしいからだ。それなのに、玉井がこうやって訪れると、気の休まるものも休まらない。  玉井はいっそ哀れなほどに空気が読めない。空気が読めないというより、鈍感なのだろう。藤代がどんなに露骨に嫌そうな顔をしても、懲りずに話しかけてくる。見上げたバイタリティだと思うが、単にバカなのではないかとも思う。  藤代は、思いっきり不機嫌に、嫌そうに言ってやった。 「分かった。忘年会の件は今、君から聞いたから、出て行ってくれないかね。それを言いに来たと言っていただろう。君の目的は果たせた。出て行くといい」 「ハハ、相変わらず先生は冷たいですね」  まったく懲りていない顔で玉井が笑う。そのしまりのない笑い方が藤代にはいけすかない。曲がりなりにも教鞭をとる身なのだ。もう少し分別のある笑い方してもよさそうなものじゃないか。 「忘年会、出席しますよね。参加しないと、今まで積み立てした分もったいないですよ」 「私は忙しいのだ。出席はしない。野島先生にも伝えておく」 「そうそう、今年はベトナム料理らしいですよ。鍋はやめにしたとか」 「出て行ってくれないかね」 「面白そうじゃないですか。俺……私はベトナム料理は食べたことがなくて。先生はどうですか? 食べたことあります?」  藤代は額に手を当てた。頭痛がするのは気のせいではないだろう。 「聞こえなかったかな。私は、出て行って欲しいと言ったんだが……」 「藤代先生……」  思うところは山ほどあるが、ここは大人同士だ。偏屈博士にも、一応の常識は備わっている。同僚を怒鳴りたてて、追い出すわけにはいかない。  ただ、これ以上会話するのはうんざりするので、藤代はこの話はここまでと示すべく、玉井を無視して机に向き直った。  教材研究がまったく進んでいない。学習プリントを早く作りあげてしまって、次の授業の準備をしたい……  丸眼鏡の位置を直しながら、ペンを握る。最近、疲れているのか視力が落ちた。まさか、老眼なわけではなかろう──さて、次の単元の導入部分はどうしようか── 「先生!」  玉井が何か言っているが、相手にしない。相手にすると、またいろいろと口出ししてくるだけだ。それに。  ガッ、といきなり、ペンを握っていた左手をつかまれた。 「っ……」  反射的に腕を引いたが、遅かった。  ペンごと、ぎゅうっと手を握られる。……誰に? 玉井に。 「先生、素敵です。そのクールな態度、渋くて素敵だ。たまりません!」 「……………………」  藤代はますます生気のない顔になった。振り払う気力もない。  玉井がもっとも残念なのはこれだ。  ──かなり感覚が人と違っている。  しかも、こともあろうに。 「やっぱり俺はあなたが好きになってしまったようです!」 「ならなくていいね。本当にならなくていい」  握られている手をどうにかして引き剥がそうと、右手を添えて力を入れる。ギギギギ、と力を入れてみるが、玉井の手はびくともしない。しかも、玉井の表情はまったく変わらないばかりか、まっすぐにこちらを見つめてきている。アニメ的に表現するとしたら、玉井の目はハートになっている状態だろう。 「藤代先生、本当にあなたは素敵だ。一度だけでいいから、俺に向かって微笑んでくれませんか。いつもの先生もクールでしびれますが、きっと微笑む先生も素敵に違いありません!」 「その根拠はどこにもないよ。あるとしたら(残念な)君の頭の中だけだね」  ギギギギギ……と玉井の手を力任せに引き剥がす。一度緩んだと思ったら、すぐさま倍の力で手を握り締めてきた。 「っ、痛い、痛い! い、いい加減にしてくれ!」 「あっ……、す、すみません。つい……。先生の手を握っているだけで、頭に血が昇って……恥ずかしい」  アッハハハ、と照れくさそうに笑いながら、玉井は頭をかいた。  この様子だけ見ていれば、親しみやすい快活な男にしか見えない。だが、中身は……そう、残念だ。  藤代は、握り締められていた手をさすった。バカ力で握り締めるから、まだぼんやりと痛い。  ただ、玉井が、熱に当てられて陰にこもるようなタイプでないことは救いだ。これで陰隠滅滅と口説かれた日には、さすがに藤代も激しく拒絶している。  玉井は目の前でうっとりとため息をついた。 「先生は本当に素敵だ……俺……じゃなかった、私、渋い男の人に弱いんですよ……」 「………………」  頭を打ったのかと心配になるが、もっと深刻なことに、玉井は正真正銘、本気だった。すでに嘘だろう冗談だろう一時の気の迷いだ気のせいだという確認行為は一通り済ませている。とぼける避ける怒る叱る呆れる軽蔑するも一通りやってみたが、玉井はへこたれるということがない。相変わらず空気を読まずに、準備室にやってくる。  ……何が悲しくて、十も二十も下の同僚に、素敵だと口説かれなければならないのだ。 「……渋い男なら、ほかにいるだろう。君の頭が心配だよ」 「俺のこと心配してくれるんですか!」 「してないね。してない」  いっそすがすがしいまでに前向きだ。どういう育てられ方をしてきたのだろう。親の顔が見てみたい。  「とにかく」藤代はしっしっと手を振って玉井を追い出すジェスチャーをした。「君の残念な頭はよくわかった。相変わらず非常に残念だった。この話はこれで終わりだ。出て行ってくれないか」 「俺の頭は藤代先生でいっぱいです!」 「一つの単語だけに反応するのはやめなさい」  自然とため息が出てくる。  この長い人生で、男に口説かれる日が来るなんて思いもしなかった。しかも──  藤代は玉井を見た。  ……黙っていれば好青年だ。おせっかい焼きだが、人柄も悪くない。何より快活としているし、世間一般では好感の持てる性格をしている。自分がこんな偏屈でなければ、かわいい後輩としてかわいがっていたかもしれない。  あいにく、自分の中に後輩をかわいがるという殊勝な心持が宿っていないのが残念だ。 「ああ、どうして分かってくれないんでしょう。俺は先生のことが好きなのに」  しょんぼりして玉井が言う。  何度聞かされても思う。……頭は大丈夫かと。 「玉井先生、君は少し他の人とお付き合いしなさい。視野が狭くなっているから、私みたいな年寄りに血迷ったことを言いたくなるんだ」 「えっ、お付き合いしてくれるんですか!」 「……だから、一つの単語に反応するのはやめなさい」  海よりも深く鉛よりも重いため息。どうしてこんなに疲れなければならないのだろう。  少し考えて、いい方法を思いつく。 「じゃあ、君に宿題を出そう、玉井先生。いいかね、私にみっともなく情けなく恥ずかしげもなく常識もなく執着する理由を八百字にまとめてきなさい。それが出来なければ準備室には立ち入らないこと」 「え! 八百字にまとめれば、先生つきあってくれるんですか!」 「……だから君は人の話をちゃんと聞きなさい」  頭が痛い。

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