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第5話
※ ※ ※
蘇洸学園の理科準備室から、コーヒーの匂いがする。
藤代竜太郎の、だめな日課の一つだ。
フラスコにたっぷり溜まった自慢のコーヒーから、いい香りがする。最近では慣れたもので、そのあたりに売っている缶コーヒーよりいいものを淹れられるようになった。
黄ばみの浮いた愛用のカップに、香り高いコーヒーを注ぎいれる。ふわり、と湯気が眼鏡のレンズを曇らせた。
そのとき、準備室の扉が遠慮がちに開いた。
誰だ、と言わなくても分かる。玉井だ。
「藤代先生……」
今日はなんだか、いつもより元気がない。浮かない顔をして、おずおずとよれた原稿用紙を差し出す。
藤代は、湯気のたつカップを机の上に置いて、その原稿を受け取った。目を落とすよりも先に、玉井が言う。
「うう、すみません……。昨日……寝てしまって……。ちゃんと書き直せませんでした! それに頭が働いてなくて……とりあえず書いたみたいな感じに……。うう……や、やっぱり今日は未提出ということで……!」
玉井は、手を伸ばして原稿を取り戻そうとする。それを身体をそらしてよけて、今日の論述回答に目を落とす。
そこには、升目なんて気にしない、大きな文字ででかでかと。
すきなものは、すき!
藤代は肩をすくめて、その原稿用紙を小さく折りたたんだ。それを白衣のポケットにしまう。
「五十点だね」
「は……」
「八十点満点中五十点。結論がはっきり書かれていてよろしい」
玉井は目をぱちぱちさせた。
「そこにきて、連日の君の意欲は素晴らしかった。平常点は二十点」
「え、え、え……??」
「合計七十点だ。十分合格点だよ」
藤代は、こともなげに言いながら、フラスコに残っているコーヒーの残りを、ビーカーに注ぎいれた。ふんわりと湯気が立ち昇る。香りを楽しむように、一度鼻を鳴らして、玉井を見る。
玉井は困惑しているようだった。
「前の回答も読んだよ。もう少し簡潔に書きなさい。論点がずれている」
「え……」
「それと……やっぱり参考資料が少ないから、根拠に弱いね。論述に根拠を持たせるには、資料も必要だよ。今回みたいな奇抜な結論を導き出すにはね。でも君はまだ二十代だから仕方ないね」
「えっと、藤代先生……? すみません、俺にも分かるように易しく……」
「玉井先生、君はまだ若いんだからもっといろんな本を読みなさい。それだけで随分違う、という話だ」
藤代は丸眼鏡越しに、少し笑ってやった。
「!」
大きく目を見開いた玉井の顔が真っ赤になった。
おや、と藤代は意外な気持ちになった。
「こんなに面白いほど反応するとはね」
「……す、すみません……、あの、なんか、嬉しすぎてですね……」
玉井は暑いのか、Tシャツの襟を引っ張っては離したりを繰り返した。藤代は、そのしぐさがまるで学生みたいだと思う。
何かに感染しそうな気持ちがして、藤代はコーヒーの入ったビーカーを持ったまま、片方の手を白衣のポケットに突っ込んだ。机の上に置いてある、黄ばんだカップをあごで示す。
「ここにあるものを使って淹れたものだから、腹を壊すかもしれないが」
「え、」
「ああ、それと、合格点だから、この準備室に来てもよろしい」
「え、え、え、」
藤代は片手を白衣のポケットに突っ込んだまま、ビーカーのコーヒーを飲んだ。透明なビーカー越しに、玉井の困惑した赤い顔が見える。
……そんなに大仰に反応されると、こっちが困るな。
藤代は肩をすくめて、作りかけの学習プリントを広げてある机に向かった。さて、この一件も片付いたから、仕事の再開だ。
「あ、あの! あの!」
玉井の混乱した声。肩越しにちらりと見ると、彼は期待と疑惑と緊張の入り混じった面白い顔をしていた。
「俺は、藤代先生のことが好き、なんです、けど」
「それはすでに知っているね」
「そ、それでも、ここに来ていいんです、か」
「論述テストは合格点だったからね。最初にその約束だったと思うが。……冷めないうちにコーヒーを飲みなさい。ぬるいコーヒーは害悪だからね」
ビーカーを机に置いて、椅子に座る。左手でペンを持ったあたりで、いきなり、その左手をとられた。
ぎゅっと握られて、藤代は空いたほうの手で頬杖をついてため息をついた。
「藤代先生……! お、俺はっ……おれは、今、とても……感動しています! やっぱり、あなたは素敵だ!」
「君がひどく私にとって不本意な嗜好をしていることは、論述テストでもう十分分かったよ……」
どうせ引き剥がそうとしたって無駄なんだろう、と胸中でつぶやく。ならば、もう好きにさせておくだけだ。
思った以上に大きな玉井の手に、年長者のプライドを刺激されているようで何となく落ち着かない。それでも、何故かこのでかい青年の、大げさな表現には慣れてしまった。
それに。
藤代はかすかに口の端に笑みを浮かべた。
知っているかね、四十をだいぶ過ぎた男は老獪だ。
そうやすやすと攻守が逆転するとは考えないほうがいい。
だから、君はいつ何時も、せいぜい、追いかけるほうだよ。
ああ、世間一般では、それを「尻に敷く」と言うんだったかな?
end!
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