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第48話 続・山田オッサン編【35】

 会社に着いてからファスナーが開いてたことに気づいた。 「家出るときは閉まってたと思うんだけどなぁ」  喫煙ルームで田中に指摘され、咥え煙草でブツブツ言いながら山田がファスナーを閉める隣で、佐藤が煙を吐きながら言った。 「閉まってたぜ?」 「あ、そう?」 「てか家出る前に俺が閉めたし」 「どんな状況で山田さんのファスナーを佐藤さんが閉めるんですか?」  訊いたのは鈴木だ。 「わかりきってることをわざわざツッコむなよ鈴木」  これはコンビニコーヒーを手にした田中。 「何言ってんスか田中さん? わからないから訊いてるんじゃないスか。だって平日の朝っすよ?」 「鈴木のくせに何、常識ぶってる素朴な疑問をぶっ込んでやがるんだよ?」 「何すかソレ田中さん、子育てのストレスをぶつけんのやめてくださいね」 「別にぶつけてねぇし」 「じゃあアレっすか、出勤前の朝っぱらから山田さんの下半身を佐藤さんが管理してる現実を目の当たりにしてピリついただけとでも?」 「誰が?」 「田中さんが」 「なんで俺が」  田中が言いかけたとき、喫煙ルームに本田が駆け込んできた。 「すみませんっ……鈴木さんっ」  平素は朝っぱらからライムだの青リンゴだのみたいな匂いでも振り撒いていそうな風情の──実際には振り撒いてない──乙女ゲー王子は、今日は珍しく取り乱した様子で長めの毛先を頬に張り付かせたりなんかしてやがる。  が、対する鈴木は表情も変えずに煙を吐いて見返した。 「何か謝るようなことしたの、本田くん」 「ベルトがですね、床に落ちてて」  本田がグイッと差し出したベルト1本を見たあと、当事者以外の3人は鈴木に目を遣った。  鈴木は事もなげに自分のウエストを確認して、あぁホントだ、と呟くと本田の手からベルトを取り上げた。 「どうりでなんか身体が軽いと思った。本田くんがいないからかと思ってたら、なんだベルトか」 「またそんなこと言って……だって僕がトイレ入ってる間に行っちゃうんですもん鈴木さん」 「え、鈴木、本田んちから出勤したのかよ?」  堪え性のない山田が早々に根負けして口を挟んだ。 「いえ?」 「あ、僕が鈴木さんちから出勤したんです」 「余計なこと言わないようにね本田くん」 「え、でも鈴木んちで本田があとから……? あ、鍵まだ返してねぇのか本田が?」 「えぇまだ返してくれないんスよ。上司を何だと思ってんスかね全く、今どきの若いヤツときたら」  そんなぁ鈴木さん、という本田の縋るような声を聞きながら、年長3人は思った。──でも本田が鍵持ってるからこそ、1人でさっさと出て来たワケだろ鈴木?  で──ベルトが落ちてたからって、なんで本田が謝るんだよ? 「えっと、また2人で飲んだのか昨日? ホント仲いいなお前ら」  慎重に探りを入れた田中の言葉はサラリと鈴木に蹴飛ばされた。 「飲んでませんよ失礼な」 「失礼なってお前な、てかじゃあ何で本田が泊まったんだよ?」  訊いた田中をじっと見返した鈴木は、煙草を指に挟んだまま本田、佐藤、山田と順番に目で一巡して田中に戻り、口を開いた。 「で、田中さんは山田さんの下半身を佐藤さんが管理してる現実を目の当たりにしてピリついたんでしたっけ?」 「そこに戻んのかよ!?」 「てかオイ、ベルトは何なんだよ!?」 「ベルトなんかよくあることじゃないですか? それより本題に戻しましょうよ」 「いやベルトの何がよくあることなのかわかんねぇし!」 「てか本題って何だよ?」 「いやだなぁ佐藤さん。家を出る前に佐藤さんが閉めたはずの山田さんのファスナーが何故開いてたのかっていう推理ごっこじゃなかったでしたっけ」 「いや、ごっこも何も、まだ誰も何ひとつ推理してなかったよな?」 「でも──なんでだよ?」  田中の声を機に全員の視線を喰らった山田が目を三角にした。 「知らねーし! 俺が家出てからここに辿り着くまでの間に佐藤の目を盗んでどっかの野郎とよろしくやって来たとでも言うのかよ!? 無理だから!」 「無理だろうな」  佐藤が素っ気なく言うと同時に山田がマイルドになった。 「まぁ誤解がねぇならいいよ」 「あの、何があったんですか?」  途中参加の本田が戸惑ったツラで訊いたから説明してやったら、王子の困惑げな表情がますます深まった。 「どうして佐藤さんが山田さんのファスナーを閉めたんですか?」 「お前の疑問もそこなのか」  田中が苦笑する横で山田が断固とした目つきを鈴木に据えた。 「俺の疑問は鈴木のベルトがどう本田に関係してくんのかってのと、飲みもしねぇで泊まってナニやってんのかってのと、あと鈴木お前さっき、本田がいねぇから身体が軽いとか何とか言ったよな? どういう意味だよ?」 「本田くんの存在が重いんスよ」 「えぇ鈴木さぁん」 「そんなことより山田さん、自分のファスナーが出勤中に誰かの手で開けられたってことは気にならないんスか?」 「だって考えたってしょーがねぇじゃん、わかんねぇんだもん。電車ギュウギュウだったしよう、そりゃいつのまにか開けられてたって気づかねぇよ。それよりも前開けたまんま歩かされてよ? ホントはちゃんと閉まってたって事実を知らねぇヤツらにアイツ開きっぱなしだぜ? ってクスクス笑われちまうことのほうがよっぽど尊厳に関わるってモンじゃねぇか?」  憤慨する山田のそばで佐藤の眉間に縦ジワが刻まれた。 「一緒に出勤しても安心できねぇんじゃ、どうしていいかわかんねぇなぁ佐藤」  田中が憐れむように首を振る横で、山田が鼻と口から煙を噴き出した。 「てかンなコトより鈴木のベルトだろ!?」 「ベルトこそどうだっていいじゃないスか山田さん」  こうしてヤツらの会話は堂々巡りに突入していく。  兎角、この世は謎だらけだった。

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