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第47話 続・山田オッサン編【34】

 このシーズンの夜道は危険だ。夜道じゃなくたって危険だけど、夜の方が暗いから余計に危険だ。  今宵も人通りまばらな住宅街に、絹ならぬダンボールでも引き裂くようなリーマンの悲鳴が響き渡った。 「サクッていった! 今っ、足の裏がサクッてなった!!」  会社帰り。2人揃っての最寄り駅からの帰宅途中、歩きながら突然ヘンなステップを踏んだ山田が佐藤に飛びついて喚いた。 「はぁ? 何言ってっかわかんねぇ」 「セミだよセミ! 落ちてたんだよ踏んだんだよ!」 「あぁ、この時期はなぁ」  煙草を咥えて熱のこもらない反応を示した同居人の横顔を見上げ、山田が探るようなツラで身体を離した。 「何この温度差? もしかして俺ら、もう倦怠期?」 「はぁ? セミでか?」 「何だよ! 踏んだのがセミじゃなくてゴキブリだったらもっと熱くシンクロしたのかよ!? 俺の衝撃に!」 「いや……」 「はぁあ? 何この温度差!?」  山田が目を三角にして沸騰し、それから2人は無言になった。  湿気が立ち込める不快な夜、黙々と歩く住宅街はその静けさがむしろ暑苦しくまとわりついてくる。  沈黙の中、並んでチンタラ歩きながら佐藤がライターを擦ったのを機に山田がポツリと言った。 「──なぁ佐藤よう」 「何だ」 「俺たち、早くも破局の危機なんじゃねぇか」 「もっぺん訊くけど、セミでか」 「キッカケが何だとか関係ねぇよな? 俺たちのこの、価値観の違い?」 「セミの死体を踏むことについてどう思うかってのは価値観が関係あるのかよ?」 「つーか温度差! 俺があんなにワーッてなったのに、あぁ……」  あぁ……の部分は佐藤の真似をしてから、山田のテンションは速やかに戻った。 「って何だよ! どーでもよさげ過ぎじゃねぇ!?」 「日本語おかしくねぇか? お前社会人何年生だよ山田?」 「そこ!? そこなのかよ、この期におよんで!?」  信じらんねぇ! 叫んだ山田が突如駆け出し、呆気に取られる佐藤を置き去りにしてあっという間に道の彼方へと消え去った。  残された佐藤は咥え煙草の煙を吐きながら思った。  この暑苦しいのに、よく走るなアイツ──  佐藤がタラタラ歩いて帰宅すると部屋の中は既に冷房が効き始めていて、ガリガリ君を咥えた山田がソファから目を寄越した。 「悪ィな佐藤。暑くてよう、ちょっとイライラしてたんだ。暑さってのはヒトをネガティヴ領域に追い立てる魔力がありやがるよな、まったく」 「──」 「でも部屋が涼しくなってきたら頭も冷えてきて、あぁ俺セミごときでちょっと怒りすぎたかもしんねぇなぁって? いや短い一生を懸命に全うした命をごときとか言っちゃいけねぇけどよ。でも俺が先に帰ったおかげで、お前も帰ってきたら涼しくなってたんだから幸せだよな? 俺がさっき入ったときなんて蒸し風呂だったぜ? てか、それ考えたらむしろ感謝してもらってもいいぐれェじゃねぇ?」 「──」  佐藤は無言のまま脱衣所に向かい、顔を洗った。水は生温かったがいくらかマシな気分になって振り向くと、脱衣所の入り口の縁から山田の顔が縦半分覗いていた。 「何やってんだお前」 「怒ってる?」 「何に」 「セミごときでキレて大騒ぎしたこと?」  佐藤は顔を拭いて溜息を吐き、 「あぁ怒ったよ、お前が破局だ何だ抜かしたことにな」  言ってダイニングに戻ると山田が後ろについてきた。 「セミは?」 「お前は何でそんなにセミにこだわるんだよ? てかンなモンで大騒ぎすんのはいつものことじゃねぇか」 「はぁナニ言ってんの? いつもはンな小せぇコトで大騒ぎなんかしねぇよ!」  佐藤はスルーして煙草を咥え、火を点けながら山田を見た。 「俺のほうこそ悪かった、今年のクリスマスをどうするか考えてたらお前の大騒ぎが右から左になっちまって」 「はぁクリスマスだぁ? まだセミが落ちてるぐらい夏が終わってねぇんだけど」 「昼間に外回りんとき電車ん中でさぁ、クリスマス旅行の話なんかしてやがる気の早ぇバカップルがいてよ。それ聞いてたら、なんかこっちまでぼちぼち考えなきゃいけねぇような気分にさせられたんだよ」 「お前もバカップルじゃねぇのか佐藤」 「ひとりでカップルとは言わねぇからお前もだぜ山田?」 「巻き添え喰らわす気か? てか、そんで何だよ! センシティブな俺のショックもそっちのけで考えたクリスマスプランを聞かせてみやがれよ、じゃあ!」 「ほら見ろ、お前だって気になるんじゃねぇか」 「だって佐藤お前、俺をほったらかせるぐらいのすげー何かを考えたんだよな? そこまで言うなら聞いてやろうってモンじゃねぇか?」 「いま教えたって気分出ねぇだろうが」 「気分って何だよ、付き合いだして初めての聖夜を迎える高校生カップルかっつーの、てか何! 俺は夏に翻弄されてるっつーのにお前の気持ちはもう冬かよ? ナニこの温度差?」 「温度差なんかねぇよ、俺だって暑くて汗だくだったぜ?」  佐藤は煙草を咥えた唇の端で笑い、山田のシャツのボタンに指をかけた。 「何なら風呂ん中で確認してみるか? 俺もお前も同じ温度だってことをな──」

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