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葱坊主の恋。
俺には好きな人がいる。
平凡すぎる書き出しだなあ。我ながら文才は無い。徳田 蓮 は苦笑しながら、暑苦しい田舎道を進む。季節外れの陽気、を通り越して、早くも夏日になってしまった空は、青々と晴れ渡っている。長閑な田園風景に、スーツの男は不似合いだ。暑くて脱いだ上着と、熱のこもっていそうなリュックサック。誰も見ていないのをいいことに、汗を拭うタオルを首へ、シャツの前は緩めて、緩い坂道を登る。あともう少しで着く。暑さにため息を吐き出した右手には、一本のネギ坊主。
田舎道には人通りが無い。けれど、バス停からの道で、地元の者だろう母娘と出会った。お花屋さんごっこをしているという幼い少女に、一本どうぞと差し出されたのが、このネギ坊主だ。畑のダメになったネギで遊んでいるんです、と母親は申し訳なさそうにしていたから、蓮は笑顔で「お嬢さんありがとう、お代はいくら?」と受け取った。今なら無料です、と笑う少女の微笑みは明るくて、随分心が洗われた気がする。
さて、この浄化された心で、立ち向かわねばならない。蓮は大きく深呼吸をしてから、その一軒家へと向かった。
「先生! 先生、入りますよー!」
その家は窓という窓を全て開け放っていた。何しろ急に引っ越したものだから、エアコン工事が間に合っていないのだ。昔ながらの風流な佇まいに相応しい蒸し暑さで、室内でも過ごすには酷である。玄関も鍵どころか戸も閉まっていなかったので、これでは虫も入り放題だろう。真夏でなくてよかった。
大きな声で「先生、徳田です! こんにちは!」と言いながら部屋を渡り歩くと、一番奥の、陽の差し込まない和室に目当ての男は転がっていた。畳の上に、薄い浴衣を着てうつ伏せに行き倒れているのだから心臓に悪い。「先生」と声をかけて鞄と上着を置き、そっと触れると、亜麻色の髪を揺らして男が顔を上げる。
「徳田君」
先生、と呼ばれるには、彼は若く見えた。実際いくつなのか、蓮は知らない。汗の浮かぶ火照った顔は少し色っぽくて、蓮は胸がドキリとするのを感じた。しかし、今はそれどころではない。
「先生、締め切りまであと一週間ですよ、大丈夫ですか?」
今日は、徳田蓮個人としてではなく、編集の徳田として来ているのだ。しっかり仕事をしなければならない。蓮の問いに、先生と呼ばれた男は「ああ……」と目を伏せて、それから顔を覆った。
「一文字たりとも書けてないとも! ああ! 死にたい……」
「ええっ、一文字もですか!? 困りますよ先生!」
蓮は編集として声を荒げた。
そう、目の前の男は今注目の作家、雲母坂 夢逢 だ。年齢性別不詳の小説家で、その独自の美しい文体と、身近な題材を扱いながら涙せずにはいられないストーリーは老若男女問わず人気が有る。ミステリアスで耽美、繊細で優美な物語は、読む者に作者像の幻想を見せる。
しかし。
「あーーもう死にたい書けない、一文字も書けない……あーもうダメ、僕はゴミ、くず、もう無理死ぬしかない……」
べちゃ、とまた畳にうつ伏せに突っ伏したこの男こそが、その、雲母坂夢逢なのだ。このネガティブ極まりない、ただの男が。
「でも先生が、『都会の喧騒から逃れられたら、死にたくならないから書けるかも』って言うから、ここに引っ越ししたんじゃないですか!」
「言ったよ? ああ言ったとも、でもね、徳田君。この暑さはね、無理……」
うつ伏せに行き倒れたままでそう言う夢逢に、ミステリアスさも情緒も何も無い。ただの汗だくの男だ。
「まあ、季節外れの夏日がきちゃったのは、困ったもんですけど。先生が急に引っ越すから……そりゃ工事間に合いませんよ」
「徳田君は冷静だなあ……。そうだよ、僕がね、馬鹿だったんだよ、ホント、死んだほうがまし……」
またネガティブのスイッチを入れてしまった。こうなると、夢逢は絶対に一文字も書けない。蓮はワシャワシャと汗で湿った髪を掻いて、なんとか打開策を考える。彼に書いてもらわないと、困るのだ。
新作の発表日はもう決まっているし、締め切りまであと一週間、とにかくあらすじだけでも用意しないことには、表紙や印刷会社との打ち合わせ、ああそれに広告代理店にも、あああああ。
悩ましいのは蓮も同じだ。なんとかやる気を出してもらわないと困る。蓮はネギ坊主をそばにあったちゃぶ台に置いて、夢逢を抱き起こす。
細い体は白くて、はだけた浴衣が、汗の滲む肌が妙に淫靡ではある。だが今はそれどころではない。それどころではないのだ。
「先生、その、そうだ、外の空気でも吸いに行きましょう。気分転換に散歩でもしたらきっと、」
「死にたくなるから嫌だよ、徳田君」
「どうしてこんな長閑な田舎道を散歩したら死にたくなるんですか!?」
逆に気になる。夢逢は、大きなため息を吐いて、何かを想像するように目を閉じた。
「例えば、外を歩いていたら、何処かで草刈りをする音がする。ああこれは、そうだね、電動草刈り機の音だ。それと一緒に、青い香りが漂ってくる」
「田舎の風景って感じで清々しいじゃないですか」
「でもねえ、田舎って独居老人が多いから、自殺する人も多いんだよ」
「急になんでそっちに話を持っていくんですか?!」
「それで、彼らがどうやって死ぬと思う? 自分の首に草刈り機を、」
「あっ、もういいです、もういいです! この話は止めましょう!」
想像しただけで、蓮まで田舎が怖くなってきた。知りたくなかった。それは、暗い気持ちにもなる。大体この先生はどうしてこう、いらないことばかり知っているのか。蓮は頭を抱えたくなった。
「……それはなんだい? 徳田君」
ふいに夢逢が問いかけてきたので、蓮は彼の指さすほうを見た。ちゃぶ台の上にネギ坊主が転がっている。
「ネギ坊主ですよ」
「そんなことは見ればわかるよ。どうして君が葱坊主を一本持って来たのか、のほうが気になるね。バラの花ならまだしも」
ふふ、と微笑まれて、徳田は顔を赤くした。からかわれているのだ。
「その、……ここに来る時に、女の子からもらったんです」
「葱坊主を。ふうん……。しかし葱坊主か。まるで首を掻っ切ったみたいだね……」
「先生~っ。女の子が純真な心でくれたものなんですよ~!」
「ホントだよね、あー……純粋な心を失ってしまった僕……は、もう、ほんとヤダ……」
あーもう嫌だ、死にたい。そう呟いて顔を覆った夢逢に、蓮は深い溜息を吐いた。本当に、この男のことはよくわからない。
夢逢はしかし、鬱の類ではないらしい。極めて後ろ向きで陰気な性格をしているというだけだ。暗いほうに目を向けて、それをじっと見つめて撫でている、そういうところがある。世の中には明るいものや眩しいものがたくさん有るのに、それによってできる影に寄り添っているのだ。
彼は以前こう言った。
『小説なんてものを書く人間は、普通ではないからね。食べられない、形にもならない、評価は一定じゃないし、世の中の役にも立たないものを生み出しては放り出すんだから。普通の心ではやっていけないと思うよ。マトモならこんなこと、とうに辞めているさ』
夢逢はそう自虐して、真っ白な原稿を前にまた呪詛を零していたものだ。
けれど、蓮はそうは思わない。少なくとも、世の中の役にも立たないものを生み出しているとは、とても思えなかった。
蓮は以前の仕事で心を傷めた。診断が下りるほどではなかったが、何か月もふさぎ込みはしたものだ。今の夢逢と同じく、暗い事ばかり考えて、一日何もせずにぼうっと座り込んで、時計の音だけを聞き、壁を見つめていた時期がある。心配した友人から、何かしたほうが気晴らしになるよと渡された本の中に、夢逢の小説が紛れ込んでいた。
夢逢の世界に、蓮は引き込まれた。それは何か、夜の空に落とされたような感覚だった。無数の星の瞬き、薄く優しい雲の形、静かな夜のひやりとした空気、そこに僅かに差し込む、やわらかな月の光。そんなものを五感で感じながら、ゆるりと落ちていく。それは不思議と優しく包み込んでくれるのだ。そしてやがて暗い海に浸る。静かな夜の海を漂っている、そんな世界を感じた。孤独だが、酷く落ち着く。この美しい世界の中で、確かに自分も生きていて、それでいいのだと感じた。夢逢の本を読むうちに、知らぬ間に涙を零し、その時蓮は、自分を取り戻した。
それからの蓮には目標ができた。必ず、この雲母坂夢逢という人に会いに行く。その形が編集者になることであり、念願かなって夢逢の担当になれたわけだ。もっとも、編集長には「アンタ若いのに、やっちまったね」と憐れまれたのだが。
「まあ、先生の『死にたい』は、しんどいとか、穴が有ったら入りたいとか、めんどいとか、そういう気持ちを単純化した言葉だから、真に受けなくていいからね」
編集長はそんなことを言っていた。しかし夢逢はこんな風なので、担当は付き合いきれずに次々辞めて変わってしまい、誰も相手をしたがらなくなったのだ。
しかし、幸か不幸か、蓮の気持ちは夢逢から離れなかった。
それどころか。
「……先生」
蓮が静かに声をかけると、夢逢が顔を上げてくれた。黙っていれば夢逢は、儚げで中性的な美青年に見える。亜麻色の髪が、汗でしっとりと火照った肌に絡みついていた。
「……俺は、先生が、……なんて言おうと、先生の作品が好きです。……俺にとっては、唯一無二の、本当に……ああ、俺、語彙力無くて、先生になんて伝えたらいいかわかんないけど、俺、先生の書くものが、」
「徳田君」
言葉は、夢逢の声に遮られた。夢逢は、目を細めて上体を起こし、蓮に顔を近づける。暗い室内でも光を受ける瞳が、僅かに揺らめく。薄い唇が、蠱惑的に微笑みを浮かべてる。熱い手が、蓮の頬に触れた。
「君が好きなのは、僕、だろう?」
自意識過剰にも思える言葉は、しかし真実だ。蓮は言葉を飲み込んで、夢逢から目が離せなくなる。夢逢はいつものように、柔らかく笑んで、小首を傾げるような仕草で言うのだ。
「なあ、セックスをしよう」
生きてるってことを、感じさせておくれよ、徳田君。
そう誘われると、蓮は夜の海中に引きずり込まれるように、夢逢の言葉も、手も拒めなくなってしまうのだ。
「ああ、……死にたい……腰が痛い……足がつりそう……」
裸のまま布団に転がった夢逢が呻いている。同じく生まれたままの姿の蓮は、まだ何も考えられずに天井を見上げていた。
「また、また僕は、彼が僕のことを好きなのに付け込んで、徳田君を誘惑し、セックスをしてしまった……」
「……別に、いいじゃないですか……俺が先生のことを好きなのは、事実ですし……」
「君はそれでいいのかい、徳田君? 僕は君の好意を利用する悪い男だ、そのうえ小説の一文字も書けはしない、ああ、くずだ、ゴミだ……」
うっうっ、と泣き真似を始めた夢逢の白くて薄い背中をぼんやり見ながら、蓮は呟く。
「先生も俺のことを好きなら、別にいいんじゃないですか……?」
「……」
「……先生? あ、もしかして、先生、俺の事別に……」
沈黙が怖くて思わず上体を起こすと、それより俊敏な動きで、夢逢が飛び起きた。
「葱坊主だ!」
「は、え?」
「葱坊主! そうだ! 葱坊主、いい題材だ! 降ってきた! 今から書く、3時間待て、徳田君!」
「えっ!? 3時間で書けるんですか、ちょ、あの、先生!」
呆然としている蓮を尻目に、夢逢は浴衣を乱雑に羽織ると、執筆部屋にしているという部屋の扉をバァンと閉じて、閉じこもってしまった。後には呆然としている蓮だけが、取り残された。ややして「暑い!」と夢逢が叫びながら扉を開けて、「徳田君、なんとかここだけでも涼しくしろ!」と無茶を言い出した。蓮は慌てて服を着て、彼の為に冷たい飲み物を用意することになった。
俺には好きな人がいる。
彼は本当に気分屋で、こちらのことを考えているのかもわからない。俺は振り回されてばかりで、彼のことなど何もわからない。関係を持ってくれているのも、本当はどういうつもりなのか、さっぱり。
だけど。
「……っ、う、うう」
バスの中。何度も読んだはずなのに、単行本として発行されたその小説「葱坊主の恋。」を読み終わって、蓮は鼻をすすりながら涙を拭いた。
ネギ坊主に「笑顔」や「微笑み」という明るい花言葉の他に、「挫けない心」なんていじらしい花言葉が有るなんて知らなかった。その言葉の通り、健気な主人公が、謎多き男と心を通じ合わせて、時間をかけながら不思議な愛を紡いでいく、優しい物語だ。その優しさがたまらなく心に染みる。あんなネガティブな人間からどうしてここまで愛おしい世界観が生まれるのか、わからない。
わからないけれど。
先生の書く話は、最高に美しくて、泣けるんだ。ネギ坊主だけでこんだけ話を膨らまして、こんな綺麗な恋物語が書けるか? 普通。先生は天才だ。
蓮は思う。そして蓮は、彼が好きだ。初めて会いに行ったその時に、薔薇の花束を渡したくらいに。
そして今日も蓮は田舎道を歩いていく。また、死にたいと喚いている彼を宥めすかして、小説を書いてもらうために。
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