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にばんめのわたし
『とある古びた喫茶店に、わたしたちは足を踏み入れました。心地よく揺れるラジオの音が、どこからか流れてきます。不思議な色をした床は、きぃきぃわたしたちを歓迎していました。きっとこのお店と同じぐらいの年をとったおじい様が、わたしたちを席に案内してくださって、お水を運んでくださいます。そのお店はきっと、わたしがこれまで訪れた全てのものよりも古くて、質素でした。けれど、硝子窓から差し込む光に照らされて、景色が、食器が、椅子が、いいえ、なにもかもがきらきら輝いて見えました。
どうだい、――珈琲を頼もうか。それとも君は、紅茶がいいかな? ミルクと砂糖をたっぷり入れたのが、君の好みだったよね。
紗英さんはわたしに眼を細めてくれます。それすらうつくしくて、わたしは見当違いなことを答えてしまいました。
わたし、紗英さんがいちばん好き。
紗英さんは、長い睫を瞬かせて、それから大きく笑いました。わたしはとても恥ずかしいことを言ってしまったのに気付いて、頬が熱くなるのを感じました。紗英さんは、わたしを馬鹿にするかしら。そう思うと、胸が苦しくなるのです。紗英さんにだけは見限られたくないと思うと、手が冬の寒空の下のように震えてしまいました。
君、いちばん好きなんて、言うものじゃないよ。
紗英さんは優しい声で、天使のような微笑みを浮かべて、わたしに囁きかけるのです。
いちばんなんて、順番をつけちゃあ。好きな気持ちに、数字をひっつけちゃあいけないよ。他の好きが、じつはどうでもいいもの、みたいに見えてしまうだろう?
紗英さんの言うとおり。わたしはそう思いました。いちばん好き、といわれるものがあったなら、にばんめからはあまり意味がないの。にばんめに好き、って言われても、わたしは素直に喜べない。それなら、ただただ、好きって言ってもらったほうが、ずっといい。
だけど、だけど。わたしは紗英さんに、それでも、言ってしまいました。
だとしても、わたしは、紗英さんが、特別に好きなの。
紗英さんは、やっぱりやわらかな微笑みを浮かべていました。
雲母坂夢逢著 にばんめのわたし より抜粋』
「小説を書きたいだって?」
夢逢が、じとりとした目で蓮を見た。それに対し、折りたたみ傘を差した蓮は「はいっ」と元気に頷く。
「俺も先生のような、小説家になってみたいなあ、と」
「は、小説家になりたいときたか。徳田君も相当な変態とみえる」
夢逢はそう笑いながらも、蓮の差した傘に収まるために、身を縮こまらせていた。
二人は雨の田舎道を歩いている。今日、蓮は仕事休みの日だ。担当の徳田としてではなく、夢逢のファンである徳田蓮として、彼の元を訪れた。
その頃はまだ雨も降っていなかったし、少しの間原稿に余裕のある夢逢は、ようやく訪れた梅雨の涼しさに縁側へ足を垂れていた。曇っていて過ごしやすい天気ですし、散歩に行きましょうよ、と蓮は彼の手を引いた。また死にたいを探しに行くのか、とぼやきながらも、夢逢が拒まなかったのはほんの数十分前のことだ。
田んぼばかりが続く道を、二人であてもなく歩いた。色とりどりの紫陽花が時折目を楽しませるぐらいで、あとは似たような用水路や森ばかり、人と会うことも無かったが、取り止めもない話をして過ごした。
山の天気は変わりやすい。暗い雲があっという間に空を埋め尽くすと、梅雨らしい雨がしとしとと地表を濡らし始めて、蓮が持っていた小さな折りたたみ傘に二人でおさまった。そして二人は妙に引っ付いて、のろのろと帰路についているところだ。
「小説家になりたいのが変態なんですか?」
「小説を書きたい、ならまだわかるよ。何かを作りたいと思うのは普遍的な欲求だからね。しかしそれを生業にしたいと思うのは変態の所業さ。こんなこと言うと他の小説家に殺されるかもしれないから、言わないでおくれよ徳田君。僕はまだ死にたくはないんだ」
原稿に追い詰められていなければ、あまり卑屈にならない夢逢は、そう言いながら空を見上げた。真っ黒な雲が覆っているから、とうぶん雨はやまないだろう。それまでこの密着した状態で歩くしかなさそうだ。幸い、二人以外に人の姿は無い。聞こえるのも、傘に雨粒がぶつかる音や、嬉しそうに鳴き始めたカエルの声ばかりだ。
「どうして生業にするのはいけないんです?」
「例えば、レストランを経営したいと思うだろう? 料理が好きだからそう思ったのかもしれないが、さて美味しいものを提供しようと思ったとして、そこには経費や売り上げ、人を雇うなら人件費が発生するわけだ。そうすると、集客をみこまなくてはね。当然、自分の作りたいものとは別に、売れるもの、人気が出るものっていう意識が必要になってくる。更には、食べた側の評価がついてくるわけだ。これは口に合わない。味は美味いが店主の態度が気に入らない。評価は集客に影響を及ぼすから無視もできない。それらの全てが自分の方向性と合致していればいいけれどね、往々にしてそのバランスをとらなくてはいけなくなる。それはとても辛い作業なんだよ、わかるかい、徳田君」
「はあ」
「わかってないね。ああ、君は幸せ者だ。想像力が無くて……」
絶対に褒められていないのぐらいはわかる。蓮はムスと口をへの字に曲げてから、「でも」と言う。
「そんなしんどいものだとわかっていても、先生は書いてるってことでしょう」
「だから変態だと言うんだ。こんな苦しみを抱えてなお、その先にあるものを求めて書き続けてしまうんだからね。一種の病気さ、依存症みたいなものだ。……絶対に人に言うんじゃないよ、徳田君」
「はい、はい……。じゃあ、小説を書くぐらいならいいんですね?」
「もちろん、それが楽しいのであればするといいよ」
「でも、俺文才が無くて」
どうしたら小説が書けるかわからないんです。蓮が苦笑すると、夢逢は呆れたような顔で蓮を見つめた。
「君、自転車に乗ったことは?」
「え? ありますけど、そりゃあ」
「自転車に乗る前に、自転車にどうやって乗ったらいいかわからないとか思ったのかい」
「それとこれとは違うでしょう」
「同じさ、大切なのは、自転車に乗りたいと思ったことだけだ」
徳田君、と夢逢が突然足を止めて道端を指さす。慌てて立ち止まって目線をやる。道端の草むらに、黄色い花が咲いていた。
「その花に名前をつけてみたまえよ」
「えっ!? 急になんですか」
「いいから。君がこの花に名前をつけてみるんだ」
「ええ……」
蓮は困惑しながらも、花を見つめた。草むらにたくさん同じものが生えているから、雑草の類なのだろうか? 黄色い花弁は4つに開いて、随分立派なおしべとめしべが、ふさふさ生えている。この姿から名前を考えろと言われても。蓮は、うーんと頭を捻って絞り出した。
「……き、……き……キムクゲラ……」
蓮の言葉に、夢逢は眉間に深い皺を寄せた。
「どこから来たんだい、ゲラは。ゲラなんて花聞いた事あるか?」
「す、すいません……」
「キムクまではいい。キムクの続きを考え直したまえ」
横暴なことを言われている。蓮は、うーんと唸りながらまた花を見つめる。その時、ふっと顏のそばをなにかがよぎったような感じがして。するりと言葉が漏れ出た。
「キムク、メトリバナ」
「なるほど、キムクメトリバナ」
夢逢もその花を見つめて、頷く。
「つまり、たぶんだけど。この花には、他の色もあるんだろうね。シロムクメトリバナ、とかさ。実に縁起がいいね、白無垢娶り花、なんだろう。初めてにしてはいい名付けだ」
「そ、そうですか? へへ……」
「さて、しかし花には花言葉がつきものだ。花言葉は色によって全く違う意味があることも多い。例えば君がくれた赤い薔薇なんかは――」
「そ、その話は、あの」
気恥ずかしくなって遮ったが、「まあ聞きたまえよ」と夢逢は微笑む。
「赤い薔薇は、『貴方を愛しています』なんてものだけれど、黄色い薔薇には、『嫉妬』なんて意味合いもあるんだ」
「へえ……色だけでも全然違ってしまうんですね」
「そう。つまり、シロムクメトリバナがとても縁起がいい一方で……このキムクメトリバナには、全く違う花言葉が与えられたりするのかもね? 白がそう、幸せな結婚とかなら、黄色は……死ぬまで貴方を許さないとか」
「ええっ、怖すぎますよ!」
「まあまあ、もののたとえだとも。つまり何が言いたいかって、小説というのはこうして作っていくものでもあるってことさ。身の回りのしょうもないことをね、ああでもないこうでもない言いながら捏ねていると、ふっとそれらが繋がって一つの意味を成すことがある。それが始まりってこともあるのさ」
わかるような、わからないような。蓮が考え込んでいると、夢逢は笑った。
「まあ、それだけのことだよ」
「それだけ……ですか……。やっぱり俺には少し難しいです。ところで先生、この花は本当はなんていうんですか?」
「そんなの知らなくてもいいよ」
「ええ?」
蓮が困惑していると、夢逢は肩を竦める。
「世の中、わからないことがあったほうが楽しいだろう? これはキムクメトリバナ、そのほうが世界が広がっていい。この花がどんな名前で、本当はどんな花言葉なのか調べて広がる世界もあるけどね。……ほら、例えば僕の本名なんか知らないほうが夢が有るだろ?」
「先生の本名、ですか」
確かに。雲母坂夢逢なんて美しい名前、ペンネームに違いないだろうが。
「本名が田中太郎だったりしたら夢が台無しになるだろ、だからわからないことは有っても別にいいのさ」
「そんなもんですかね……?」
俺は先生のこと、もっと知りたいですけど。その言葉は飲み込んだ。
「でも、やっぱり俺はあの花の名前、知りたいです」
「徳田君は知りたがりだな。これはね、クサノオウというんだ」
「草の……王? すごい名前ですね」
「ふふ、そうさ。現実も大それた名前と勝手な意味を花につけるのだから、我々が想像して作るのもまた真実に成り得るのだよ、徳田君」
「……ちなみに、花言葉は?」
「『私を見つめて』とか、『思い出』とかだね」
「大それた名前のわりに、しおらしいんですね……」
「だろう? 王様だろうと人には変わりないとか、色々想像は膨らむけどね。まあ、オウは黄色のオウだって説もある。妄想するのも悪くない暇つぶしだ。それで一本の小説が書けて、売れるかどうかは別としてね」
夢逢は大きな溜息を吐く。その意味するところを、蓮は完全には理解できない。彼にはわからない部分が多過ぎる。彼の書いた作品は何度も読み返したし、身体は幾度も重ねたというのに。
ふいに彼と過ごす熱い時間を思い出してしまい、蓮は一人、顔を赤らめた。
「まあ何、徳田君、一番大切なのは、君が何を言いたいか、なんだよ」
そんな蓮をよそに夢逢が話を続けるから、ハッと思考を元に戻す。
「俺が、ですか」
「そう。文章の上手い下手なんていうのはね、あとで考えたらいい。君が。今まさに、小説を書きたいと思うほどに伝えたいことが有るんだろう? それを大切にするんだ。それが一番大切なことだからね。見失っちゃいけない」
「……俺が、伝えたいこと」
そうさ。そう言いながら夢逢が歩き始めてしまったから、蓮もまた歩き出すよりほかなかった。
「君は何を伝えたいんだい、そうまでして、他人に」
「……俺は」
そう言われて、蓮は考え込んでしまった。そうまでして、他人に伝えたいこと。これは本当に、他人に伝えたいことだろうか? 本当は。本当は誰に伝えたいのか。
「……俺には、好きな人がいます……」
ポツリと漏らす。ハッとしたが、夢逢はそれを書き出しだと思ったようだ。
「なるほど、ありきたりだが、わかりやすい書き出しだし、恋愛はテーマとしては書きやすく受け入れやすい。いいじゃないか」
「あ……は、はい」
「それで、続きは?」
促されて。蓮は黙った。雨のしとしと降る音と、二人の足音が傘に反響して妙に響く。カエルの鳴き声が何処からか聞こえた。彼らは愛を叫んでいるのだという。溢れんばかりの愛を歌って、相手の答えを待っていると。
「……俺は、……俺は、その人を……世界で一番、」
そこまで言って、はたと思い出す。それは、夢逢の小説の一節だ。
『君、いちばん好きなんて、言うものじゃないよ。』
それは、あの登場人物のセリフだ。夢逢の言葉ではない。けれど、夢逢から零れ落ちたものだから。
『だとしても、わたしは、紗英さんが、特別に好きなの。』
どうしても。どうしても意識してしまった。
だって、俺の好きな人は――。
「……特別に、好きです……」
そう呟くと、夢逢がゆっくりと足を止めた。蓮は何故だか鼓動が早くなるのを感じて、どうにも不安でたまらなくなった。夢逢はしばらく何も言ってくれなくて、余計に辛い。伝わってしまったのだろうか。
ややして、夢逢は蓮を振り返ると、困ったように笑った。
「君、いささか僕の作品に影響されすぎじゃないかい?」
ダメだよ、そうして君の感性を否定しては。夢逢はそれだけ言って、また前を向いて歩き始める。
「そ、そうですかね……」
「そうとも。君が世界で一番好き、という表現をしたいと思ったならそれを信じればいい。……それにね、徳田君」
夢逢は悪戯っぽくクスリと笑って、蓮を見た。
「僕は、彼女のように純粋ではないから、にばんめでは嫌なんだ。君の一番じゃないとね」
玄関の戸を閉めるなり、夢逢に抱き着かれて、キスをされる。は、と飲み込んだ息ごと食べられるように口づけされて、蓮は濡れた傘を落とした。
逃がさないとばかりに背中に腕を回されて、貪るように舌を絡められる。傘を差しても濡れてしまった体は冷たくて、けれどたまらなく熱い。蓮もこうなるとわかっていたから、夢逢を受け入れて、彼を壁に押し付けると、角度を変えながら何度もキスを繰り返した。
「は、……ッ、せんせ、ここ、玄関、ですよ……」
キスをしながら、蓮の服を脱がせにかかった夢逢に、形ばかりの抗議をする。夢逢は荒い呼吸を繰り返しながら、熱っぽい視線を向けて、蠱惑的に微笑んだ。
「もうアパートとは違うから、誰にも聞こえやしないよ、徳田君」
だから、いいだろ? 夢逢の誘惑に、蓮は敵わない。はあ、と熱い息を吐いて、それから彼の身体を強く抱きしめる。ア、と漏れた声に理性が焼き切れた。
そう、俺は、世界で一番目に、この人を好きになったのだ。
『君のこと、好きだよ。
紗英さんの言葉に、わたしの眼からぽろぽろと、それは苦しい涙がこぼれました。こんなに胸が痛いのは初めてで、喉も熱病にかかったように焼けるものだから、このまま死んでしまうのではないかと不安になるほど。紗英さんの微笑みは天使のようなのに、今日は少し、少しだけはにかむように、赤らんでいました。
でも、いいの? 君はにばんめになってしまうよ。
ああ、紗英さん。なんてことをお聞きになるの。わたしの涙はいよいよ大粒になって、きっと顔もくしゃくしゃで、紗英さんのうつくしさにふさわしいものではなくなっているでしょう。それでも、わたしは、この胸が潰れて、喉が焼き切れても、紗英さんに伝えなければいけません。
あなたがいちばんめに好きになった人を、わたしはしりません。その人を今、あなたがどう思っているのかも。けれど、わたしはあなたが好きです。あなたはわたしの、いちばんめに好きになった人です。だから、だから。
そこから先はつっかえて、上手く言えないのです。今言わなくて、いつ言うというのでしょう。なのに、息ができません。このまま呼吸もできずに死んでしまうのかもしれないほどに、涙がとまりません。ああ、紗英さん。紗英さん。あなたが好き。わたしが一番目に好きになった、特別な人。
そして紗英さんはくしゃくしゃになったわたしの手を取って、わたしに言ったのです。
私も君のことが、特別に好きだよ――』
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