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憂い浜木綿 下
朝日が完全に昇ってしまうと、夢逢はその景色に興味をなくしたのかさっさと宿へ戻りはじめる。蓮も続いて歩いている時、それを見つけた。
「先生、面白いですね。こんな海辺にヒガンバナが咲いてますよ。それも白いのが」
夢逢を呼び止めると、彼も同じ方を見た。海岸の端には少々の緑地があり、見慣れない葉の草が生えている。その中にぽつりぽつりと白い花が咲いていた。
すうっと立ち上がった長い茎の先に、白く細い花弁がいくつも枝垂れ花火のように広がっている。よくよく見ればヒガンバナとは少々違う形をしているし、今はまだ夏でヒガンバナが咲くには随分早い気がした。
「ああ、そいつは……なんだったかな。名前を忘れてしまった」
「先生でも花の名前を忘れるなんてこと、あるんですね」
「君、僕を花事典か何かだと思っているのかい? 知らないことも忘れることも、この海岸の砂ほどあるだろうさ。それより君も気になったなら調べればいいだろう。その手には僕の脳よりずっと優秀な板が握られているのだから」
言われてみればそうだ。蓮はスマホを手に取ると、花の写真を撮る。最近は便利なもので、こうして写真を撮って検索すればそれがなにかわかるという。是非はともかく、便利な時代になったものだった。
「ハマユウ、ですって。砂浜の浜に、木に綿……って書いてハマユウ」
「ああ、浜木綿か。僕には無縁の花言葉を持っていたように思うな」
そう言われて花言葉を見れば、「純白」「清純」「希望」「汚れがない」などと書いてあって、蓮も苦い表情を浮かべた。しかし、続いて「どこか遠くへ」「あなたを信じます」とも書いてある。
「ハマユウの種はコルク質で、海に浮かんで流される。いずれどこかへ辿り着いて、きっとそこで花を咲かせる……そういう希望が花言葉を作ってるんですね。素敵です」
「ふぅん。波に乗るというのなら、旅へ出たつもりがまた同じ場所へ帰ってくる可能性もあるだろうにね」
「でも、旅に出なければ新しい場所へも着けないですよ。こうして素晴らしい朝焼けを見たり、ハマユウの花を知ったりすることも」
蓮がにっこり笑うと、夢逢は呆気にとられたような表情を浮かべた。
「君は絶望的に文才は無いけれど、時折少しだけ良いことを言うね」
「……それって褒められてます?」
「さあて、ね」
蓮たちは宿に戻り、朝食をとると観光へ出かけた。海沿いの温泉地は風が通って涼しい。とはいえ、夏も盛りであるには違いない。ふたりはできるだけ屋内を選びつつも、取材観光を続けた。
通りにはいくつも東屋が立っており、足湯を楽しめるようだった。しかし暑いものだから、楽しむ人の姿はまばらだ。夢逢は「人がやりたがらないことをやるのもまた取材だからね」と言って足湯に入ったし「人がやりたがらないことを続けることもないだろう」と早々に出た。
歴史を感じる古い宿から、真新しい大きなホテル、日帰り入浴の伝統的な温泉から、家族で楽しめるスパのようなもの。観光客向けの立ち食いの店や、老舗の佇まいの飲食店。華やかな土産物店から、慎ましやかな工芸の店。様々が入り乱れ、現代と昭和やそれより前の時代が混在し、歩いているだけでまるでせわしなくタイムスリップでもしているようだった。
観光の間、夢逢は気まぐれに人力車へ乗り、無計画に地元のバスへ乗り込んだ。よくわからない場所へ着いては蓮に写真を撮らせ、自分は景色を眺めたり地元民の会話に耳を澄ませたりしていた。それらが小説の役に立つのなら、と蓮は夢逢の希望にできる限り答えたが、単に遊んでいるだけなのかもしれないとも思った。それはそれでいいことだ。あの死にたがりの作家が、何かに夢中になれているのなら。
宿へ戻ったのは夕方になってからだ。朝が早かったこともあり、途中から体力も尽きた夢逢は眠そうにしていて、蓮は仕方なく彼をタクシーに乗せて帰ることにした。宿についても始終眠そうにしているから、肩を貸すのも面倒で負ぶっていると、仲居さんがニコニコ見守っていて少々気恥ずかしかった。
蓮も疲れたので1時間ほど仮眠して、夕飯の声がかかり目を覚ました。夢逢はまだ眠そうにしていたけれど、豪華な食事を頬張っているうちには頭も起きたらしい。温泉を楽しんだ後、昨晩のように布団を敷いて横になり、電気を消した。
昨日は夢逢もすぐ眠っていた。観光を楽しんだ今日もそうなるだろう。蓮も疲れていてよく眠れそうだと思った。けれど、仮眠をとったせいでまだ眠気はない。さて、睡魔が忍び寄るまで何をするか、と考えていると。
「……っ、せ、先生?」
するり、と布団の中に夢逢の手が潜り込んできて、蓮はびくりと彼を見た。しかし闇に慣れていない目では何も見えない。下手に動いて怪我をさせたらいけない、と考えているうちに、掛け布団の重みが消えていく。夢逢に剥がされたのだろう。
「先生、一体どうしたんです」
蓮もうすうす勘づいていて、けれど聞かずにいられなかった。
「どうって、わかっているだろうに」
夢逢の声が、想像していたよりも近くで聞こえる。彼の手が体を這うのが感じられて、思わずごくりと喉を鳴らした。夢逢と行為をするのはよくあることだが、こうして布団を敷いて夜にする、というあまりに正常なシチュエーションは殆ど経験がない。「先生」と呼ぶ声が、制止を意図してのものかそうでないかさえ、もはや曖昧だ。
腰骨に、ずしりと温かい重みが乗る。はだけた浴衣から胸に両手を当てられて、それでようやく蓮は夢逢が馬乗りになっているのだと理解した。目を凝らせば次第に、うっすらとその姿が見えてくる。月の明かりを受けた彼がゆっくりと浴衣を落としていくのが、どうしようもなく扇情的だった。
「この旅でよく働いている君に、せめてご褒美ぐらいあげないといけないだろう」
夢逢が心からそんなことを思うはずもない。これは建前だ。
「でも、先生だってお疲れでしょう」
そして蓮の口から溢れたのも、まさしく建前だった。
「ふふ、言葉というのは本当にすごいものだねぇ、徳田君」
こうしてお互い、ていのいい言い訳を用意することで、欲を重ね合わせることができるのだから。
夢逢の細い指が、蓮の唇をなぞる。思わずそれを口に招き入れ、蓮もまた夢逢へと指を這わせた。
後に、「憂い浜木綿」という題名で一本の短編小説が書かれた。
舞台は温泉地でもなんでもない、ただの寂れた漁村である。
『とある神職の男が卑しい女に恋をした。身分こそ低いけれど、清廉な女だ。浜木綿の香りを好む、優しい女だった。そんなふたりは叶わぬ恋の果て、ついに海へ身を投げた。
しかし、男だけが元の浜へ辿り着き、女は死体も上がらなかった。生き延びてしまったこと、想い人ひとりを死なせたことへの負い目から、男は毎晩泣いて暮らした。
女を追って死のうとした夜もあった。しかし、不思議なことにそれはことごとく失敗し、男は次第にそれが天命なのだと、女が自分を守っているのだと考えるようになる。
やがて男は2人目の愛する女性に恵まれ、子を成した。子はすくすくと育ったが、ある日のこと、小舟に乗ったまま沖に流され帰れなくなった。子を助けようと男も小舟で海へ繰り出したが、やがて日が暮れ、月さえ隠れた暗い闇夜に包まれる。
ぎいぎいと揺れる舟の音が不安を煽る。このまま死ぬのだ、と男は諦め櫂を手放そうとした。その時だ。
「あなただけが楽になるなんて、許せない」
おぞましい女の声に、背筋が凍る。振り返れば島ほどもあろうかという巨大な影が、ぬらりと海から鎌首をもたげていた。
「苦しんで苦しんで死ねばいい。二度と子にも会えないようにしてやる」
呪詛が反響する。かつて愛した女の顔が脳裏に浮かんだ。ひとり死んだ彼女が怨霊となり、化けて出たのだ。
男は再び櫂を握り、必死で船を漕いだ。自分には守るべき子がある。子を助けずに死ねようものか。子が助かれば、俺はどうなってもいい。お前の元へ行こう、だから少しだけ待っていてくれ、と繰り返しながら。
無我夢中で漕ぎ続け、どれほど経っただろう。手の皮は擦り剥け、腕は鉛のように重い。ふと気付くと、空が白んでいる。恐る恐る振り向けば、そこには見事な朝焼けが広がるばかりで、あの巨大な影などどこにもない。
前へ向き直れば、浜辺で妻と子が手を振っているのが見えた。男は転がるように陸へ上がり、愛しい妻子を抱きしめ涙を溢した。
聞けば、子は闇夜の中で誰かに舟を押してもらったのだという。姿は見えなかったが、とても優しい女性の声がした、と。長く生きて、父母を大事にしなさい、と彼女は励ましの声をかけながら、この浜まで送り返してくれたのだと。
そしてその声の主から、優しい香りがしたという。男が愛する、浜木綿の花の香りが。
男はハッと海を振り返る。
浜辺には白く清廉な浜木綿の花が咲き乱れている。共に死ねなかった女の愛した花が。あの呪詛の主は、あの言葉は。
優しい声をかけられていたら、子のことを思い出させてくれなかったら、男は女の元へいこうとしただろう。けれど彼女は男へ恐怖を与え、現世へと帰るよう追い立てたのだ。
男は海を見つめる。憂いを帯びた東雲の空が、涙で滲んでいく。その色は彼女の微笑みのように優しい。
風に揺れる浜木綿が、ふわりと甘く香った気がした』
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