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憂い浜木綿 上

 それは夏も盛りの、とある日のことである。  徳田蓮は無事に雲母坂夢逢の原稿を手に入れ、いそいそとカバンにしまっているところだった。書斎机の上に置かれた本をパラパラとめくりながら、夢逢は「あ」と呟く。その声に蓮も顔を上げると、夢逢は壁にかけられたカレンダーを見ていた。  蓮の出版社名が印字されたカレンダーは、月が変わってしばらく経つのに、先月のままだ。今月の部分はとても小さくて、蓮が目を細めて見ていると「来週」と夢逢が口を開く。 「取材旅行へ行くよ」 「え? 夢逢先生がですか?」  蓮は目を丸めた。口を開けば死にたいと言い、どこにも出かけず田舎に引きこもっている夢逢が、取材旅行などと。珍しいことだ。 「ちなみにどこに行かれるんです?」 「少し遠いね。九州の温泉地だよ」 「……だーいぶ遠いですね?」  単に九州、ということであればまだいいけれど。夢逢の住んでいるここは、バスを乗り継いで来るような田舎だ。光回線もまだ来ていないような、場所によっては携帯の電波も途切れるような。だからこそ、わざわざ蓮がここまで来なければいけない……というのは建前だったが。今となっては、誰の建前なのかもよくわからない。  ともかく、この田舎から出て飛行機なり新幹線なりに乗って行くのなら、九州は少しどころではなく、それなりに遠い場所だ。 「ひとりだと大変そうですね、お気をつけて……」  蓮がそう言うと、夢逢は「何を言うんだい、徳田君」と肩を竦めた。 「君も一緒に行くんだよ」 「……えっ?」  蓮は一瞬何を言われているのかわからず、何度か瞬きしてから「えっ!?」ともう一度声を出した。 「俺も一緒にですか?!」 「そうだよ。来るだろう? 席も部屋もちゃんとふたり分で取っているし」 「いやいやいや、先生、俺にだって都合とか予定とか……!」  慌ててスマホのスケジュールを確認して、蓮はハッと目を開いた。  来週一週間、予定がすっからかんなのだ。そういえば、編集長から「来週は空けておくように」と強く言われ、素直な蓮は仕事もプライベートも予定を入れていなかったのだった。おかげで、まったく問題無く夢逢と旅行にいくことはできる。  できる、が。 「きゅ、急なこと過ぎて、心の準備が……」  夢逢のほうはどうか知らないけれど、蓮にとっては好きな相手と初めての泊まり旅行ということだ。色々なことを考えて、胸と頬が熱くなる。もじもじしている蓮に、夢逢は「ふぅん」と頷いて言った。 「別に嫌なら私ひとりで行くが、本当にそれでいいのかい?」 「え、嫌というわけでは……」 「なにしろ、宿泊先は海沿いの良い場所でね、近くには断崖絶壁の絶景があるらしいんだよ。風光明媚な観光地でもあるが、毎年何人か身を投げて──」 「あああああ、行きます、行きます、着いて行きます!」  刑事ドラマの最後の数分、犯人が全てを語るシーンのような崖。そこに立つ夢逢のことを想像して、蓮は大慌てで宣言した。そんな場所、夢逢でなくたって妙な気持ちになってしまいそうだ。  大体、このどうにもとらえどころのない男をひとりで旅行などさせて大丈夫なのか、だんだん心配になってきた。連れて行ってください、と繰り返すせば、夢逢は満足そうに笑って、一枚のメモを渡してくる。 「当日のスケジュールだよ。よく読んでおくように」  受け取ったその紙には、3行しか文字が書かれていなかった。すなわち、行きの新幹線の出発時刻、宿泊先の名前、帰りの新幹線の出発時刻。それだけだ。  そして、その日付を見て蓮は目を丸めた。 「……3泊4日!?」   「やあ、徳田君。お早い到着だね」  新幹線のホームに座り、じりじりと熱気に焼かれながら夢逢の到着を待ちわびていた蓮は、その声に心の底から安堵した。指定された新幹線の出発時刻まで、あといくらもない。夢逢はぎりぎりまで現れなかったものだから、気が気ではなかったのだ。 「先生っ、言わせてもらいますけど、先生が遅……」  ひとこと言ってやりたくて振り返った蓮は、結局そのまま何も言えずに瞬きをすることになった。  なにしろ、あの雲母坂夢逢が、Tシャツにアロハ、デニムの姿でキャリーを持っているのだから。 「……う、浮かれてる……」 「なんだい、取材旅行だよ? 浮かれもするだろう。私だって人間なのだから」 「でも、アロハなんて着てる人たぶん、九州にだってそういないですよ」 「僕が行けば、九州にもアロハを着てる人がいることになるだろう」 「ええ……」 「大体、君だってあまり人のことを言えないだろうに」  そう言われて蓮は自分の服装を見る。Tシャツに薄手のシャツを羽織って、下はハーフパンツにスニーカー。どこがいけないというのか。 「俺のどこが……あっ!? 先生!?」  自分の身体から視線を夢逢に戻すと、彼はさっさと目的の新幹線に乗り込んでいるところで、蓮も慌てて続く。夢逢を追って席を探すうちには発車のアナウンスが鳴り、いよいよ彼らの旅行が本格的に始まることを知らせた。  指定席は平日だろうがどこの席も埋まっている。夢逢は迷いなく車両を進み、とある二人席の窓際へと腰かけた。蓮も続くと、急いでキャリーを二人分頭上の荷物入れに押し込め、座席に着く。 「先生、頼むから旅行中に行動する時は、ひとこと声をかけてくださいね!?」  旅の始まりからして報連相の欠片もない感覚に思わず言うと、夢逢は何度か頷きながら蓮に茶のペットボトルを差し出した。 「まあ、茶でも飲んで落ち着きたまえよ。話す時間はこれからいくらでもあるんだからね」 「…………」  誰のせいで落ち着かないと思っているんだ、とは言えず、蓮はため息交じりにペットボトルを受け取ると、さっそくいくらか飲んで気持ちを鎮めることになった。 「うわぁ、すごい雰囲気のある旅館ですね……」  蓮は精一杯言葉を選んで、そう零した。  夢逢のとった宿は、よく言えばまるでかつて文豪たちが過ごしていたような、悪く言えば古臭い旅館だった。  色の落ちた木造二階建てで、大正明治辺りのドラマに出てきそうな姿をしている。庭木はお世辞にも手入れが行き届いているとはいえず、柳が垂れて幽霊かお化けが出てくるような屋敷にも見えた。そう考えると夏の蒸し暑さに茹りそうな体が冷えていく。 「不気味でいいだろう? 徳田君、写真を撮っておいてくれたまえよ」 「えっ? あっ、はい」  わざわざ言葉を選んだのに、隣に立つ夢逢はあっさりと「不気味」というし。自分で撮ればいいのに、写真を撮れと言われるしで、蓮は困惑しながらもデジカメを構え旅館の外観を撮影した。 「これが資料ってことですか?」 「そうだよ。今度の話はこういう場所を舞台にしようと思っていてね。実にイメージ通りの旅館で良かったよ」 「なら、自分で撮ったほうがいいんじゃ?」  夢逢が資料として保存したい景色と、蓮が撮る景色はどうしても異なってしまうだろう。そう思って蓮が夢逢を見ると、彼は旅館をじっと見つめている。その表情は、これまで見たことのないほど真剣なもので蓮はドキリとしてしまった。 「徳田君、何を言っているんだい。僕は今、見たものを感じたまま心に記録しているんだ。レンズ越しに見たら僕から遠ざかってしまうだろう。君が記録するのは、僕が感じたことを思い出す手がかりだよ」 「…………なる、ほど……」  あの雲母坂夢逢が、作家らしいことを言っている。蓮は色々なことに動揺しながらも再び撮影に戻った。夢逢が仕事をしているのなら、自分も担当編集としての仕事をするのみだ。  建物と同じほど歴史を感じさせる女将に歓迎され、木造の旅館内を案内される。風流といえば風流だが、夜は大層怖いだろうなと感じた。通された客室は広い和室で、一枚板のちゃぶ台に座椅子がふたつ置かれている。奥のほうは障子で仕切られており、蓮は何気なく開いて思わず声を漏らした。 「うわぁ、いい景色ですねぇ!」  窓の向こうには、無数の松が立ち並ぶ一面の海岸線。奥のほうには白い砂浜も見え、夏空と海のそばで白く輝いている。古めかしい和室も、この景色と共に味わうとなかなか良いものだ。なるほど、夢逢はこの景色のために来たのかと確信した。 「ああそうだね」  ところが、夢逢は気のない返事をして、和室に寝っ転がってしまう。景色にもまるで興味がないといった風に天井を見上げ、「ああ疲れた、暑かった」と目を閉じてしまった。 「ちょ、先生! そんなところで寝ちゃダメですよ! それにせっかく温泉地へ取材旅行に来たんですから、観光とか……!」  蓮は至極当然のことを言ったつもりだが、夢逢は面倒そうに寝がえりをうつと、蓮に背中を向けてしまった。 「そんなの、明日でもいいだろう。なんのために3泊4日の日程を組んだと思っているんだい。今日はゆっくりするつもりだよ」 「ええ、勿体なくないですか?」 「疲れていると認知能力も下がる。せっかくここまで来て、万全の状態で挑まないのも勿体ないことだとは感じないかい」  正論のようにも、いつもの自堕落のようにも聞こえる。蓮は頭を掻いて、ひとまずこの作家の言うことを信じておこうと思った。連れ出したところで喜ぶ人間でもないし、かといって自分だけで観光を楽しんでいるうちに崖などへ行かれても困る。  そうしたわけで、初日はただ旅館の中で過ごした。宿の温泉は広く、檜作りの浴槽に浸かり滑らかな湯を楽しんだ。隣の夢逢の髪が濡れている姿には胸が高鳴ったけれど、今日は仕事で来ているのだからと自分に言い聞かせた。もっとも、そうした自制心が役に立ったことはついぞなかったけれど。  湯から上がり、浴衣で部屋へ戻ると夕食が用意されていた。海沿いとあって海鮮尽くしの料理は、旅館の古い趣からは想像できない豪華なもので、味も絶品だ。人も宿も見かけによらないんだなぁ、などと思っているうちにはすっかり夜が更けていった。  蓮自身はふたりきりの宿泊に思うところもあったが、布団を並べてみても横になって電気を消しても、夢逢は珍しく挑発してきたりもせず、さっさと寝てしまった。静かな寝息を聞きながら、しばらく蓮は月明かりの海辺を眺めて過ごし、ややして目を閉じた。 「……ん……?」  蓮がふいに目を覚ますと、開けっ放しだった窓の向こうはうっすらと明るくなっている。それで起きてしまったのだろう。手元のスマホを見てもまだ4時と表示されていて、蓮は二度寝しようと窓に背中を向けた。 「……先生?」  それで隣の布団が空になっていることを知り、蓮は完全に目を覚ました。手洗いか、としばらく耳を澄ましても、物音ひとつしない。がばりと起き上がり、乱れた浴衣もそのままに手洗いや備え付けの風呂を開けてみたが、夢逢の姿はない。  サァっと血の気が引く。もしあの気まぐれで死にたがりの作家が、何かよからぬことを思いついてしまったのだとしたら。止めなければ。でもいったい、先生は何処へ。  蓮は振り返って、窓に張り付く勢いで外を見る。  朝焼けの始まろうとしている浜辺に、ぽつんと人の背中が見える。風に亜麻色の髪と浴衣の裾を揺らすその姿こそは、夢逢に違いなかった。  蓮は踵を返すと、スマホを手に取って駆け出した。寝起きの体に鞭打って、できる限りの全力で旅館を出ると、車道を渡り松林を抜け砂浜へ。その波打ち際に佇む男の背中へ、「先生!」と声を投げかけ走り寄った。  その顔がこちらへ振り向くよりも早く、蓮は夢逢を背中から強く抱きしめていた。 「徳田君、」 「先生っ、ダメですよ、はやまらないで、入水なんてダメです! 苦しそうじゃないですか!」 「はあ?」  夢逢を波打ち際からひきずって、少し離れたところまで連れて行く。そうして蓮はようやっと一安心し、夢逢の顔を見た。彼は困ったような呆れたような、なんとも言えない表情を浮かべている。 「徳田君、何か勘違いしているようだがね。大文豪でもあるまいし、そんな死に方をするつもりはないよ、僕は」 「え、ええ? じゃあどうして……」  入水するつもりじゃなくて、他にこんな時間から浜辺に来る理由があるのだろうか。蓮は混乱して、さっぱりわからなくなっていた。けれど、夢逢にそのつもりがないと知れば、少々冷静に考える余地ができる。 「ほら」  答えを示すように夢逢が海を指差す。つられるように蓮もそちらへ目を向けた。  そこには絶景が広がっていた。陽の昇り始めた空には薄い雲が浮かび、眩い太陽を穏やかに隠している。そのせいかいつも青だと思っていた空は、紫や橙の絵具を混ぜたような複雑な色合いを見せている。そして暗い海が淡く照らし出され、どこまでも穏やかに揺れているのだ。  朝焼けだ。事象を示すならたったその一言で済む。けれど、この感情をどう言い表せばいいのか、蓮にはわからない。早朝の澄んだ静かな空気に、ざぁと浜辺に寄せる波の音、柔らかな潮風が頬を撫でる感覚と、日常を離れたその景色。  それらが合わさって、蓮はどこか泣きそうになるほどの感動を覚えている。けれど、どうしてなのかまではわからない。いや、わかる必要があるだろうか。蓮はただただ、その景色の前に先程の入水騒動も忘れて立ち尽くしていた。 「言葉というのはすごいと思わないかい、徳田君」  隣に立った夢逢が、ぽつりと呟いた。 「ただ「東雲」と二文字記すだけで、誰もの視界にこの景色が広がるんだ。この色彩、この感情が誰もに伝わる。末恐ろしいことだよ。だらだらと文字を連ねて小説を書き読ませるより、ずっと鋭く相手に感情を湧き起こさせる」  蓮はその言葉に夢逢を見つめる。彼はこの景色、この一瞬の全てを記録しようとでもいうように、じっと海を見つめていた。亜麻色の瞳にはきっと同じものが映っているだろう。けれど、蓮は先程の夢逢の言葉に半分ほど同意できなかった。  きっとそこにあるものは同じだ。けれど、写真と同じで人によって通すフィルターも角度も違う。今この時、夢逢と蓮はふたりで立ち、全く同じ景色を目にしているはずだが、きっと感じているものも考えていることも違うはずだ。  東雲、という言葉で思い出すものは、夢逢にとってはこの景色なのかもしれない。けれど、蓮にとっては今まさに、それを語った夢逢の横顔なのではないだろうか。  彼はこの景色を見て、何を思っているのだろう。何を感じたのだろう。何を思い出し、何を東雲という単語に見出したのだろう。隣にいてもわかり合えないことへのもどかしさと、切なさに蓮は思わず口を開いた。 「俺は、先生がこの景色をどう小説に書くのか、それが楽しみです。文章を読むだけで、きっと俺はもう一度この瞬間に戻れるし……そこに、先生の見た景色が、先生の気持ちがあるように思えて……」  最後のほうは小さな声になってしまった。夢逢がゆっくりと蓮を見つめたからだ。静かな瞳は何を映して、どう思っているのだろう。蓮が不安を感じていると、夢逢はふっと笑った。 「徳田君。僕の小説に、僕はいないよ」 「で、ですが。書き手の価値観や思考は、作風や登場人物に宿るものじゃないかって俺は思うんです。だから……」  だから。あんなに優しいお話を書いている先生は、きっと優しい人なんです──。その言葉は呑み込んだ。好きという言葉より、よっぽど口にしてはいけない気がした。

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