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3.想定外と予定外(3)
* * *
少し揺さぶったくらいで何も変わらない――。
宰の予想した通り、それからの日々もこれまでのものと何ら変わりはなかった。
相変わらず優駿は暇を見つけて――作って――は店に来て、宰の顔を見ては嬉しそうに笑っている。
柏尾がしかけた小さなことは、本当に小さなことだったようで、冗談でも優駿がそのことに触れてくることはなかった。
――たとえあれから、何度同じ状況に立たされていても。その瞬間に僅かな反応を見せることはあっても、それを口に出してきたことは一度もない。
何だか面倒なことになりそうだと思ったことも、単なる杞憂に過ぎなかったようだ。
「お、今日も来てるじゃん」
優駿は宰のいないカウンター越しに薫と談笑しているところだった。
夏休みに入ったからと言って、以前にも増して通いつめるようになった優駿のそんな姿に、事務所で防犯カメラの画面を眺めていた柏尾が独り言のように言う。
「毎日毎日飽きもせず、ほんとよく続くなぁ」
呆れるを通り越して感心する、とばかりの柏尾の傍には、たまたま資料を渡すと言って呼び戻された宰の姿があった。
「……そう思うならうまいこと追い帰せるようにしてくださいよ」
受け取った書類をチェックしながら、宰は視線を向けることもなく淡々と答える。
「うーん……。そうしてあげたいのは山々なんだけどね。あの子、あれでもあの小泉さんとこの息子さんだからねぇ……。なかなか下手なことはできないよね」
「本気で思ってないですよね」
「そんなことないよ。これでも色々考えてんのよ、どうするのが一番いいかなぁって」
とは言うものの、柏尾の言い様は言葉に反してどこか楽しそうだった。
「……言ってろよ」
吐き捨てるように呟き、パタンとファイルケースを閉じる。そのまま「失礼します」と部屋を出ていこうとした宰の腕を、柏尾が掴んだ。
「聞こえてるよ」
宰が振り向くと、待っていたように唇を重ねられた。
「仮にも上司にそれはなくない?」
離れた唇が耳元に近づき、注ぎ込むみたいに囁かれる。その一連はあまりに一瞬のことで、宰は突き放すこともできなかった。
「――なんてね。今更か」
柏尾がふっと呼気を漏らす。かと思うとあっさり身を退かれ、宰は見開いていた瞳をぴくりと細めた。
「……アンタね……」
ファイルを持つ手に力が入る。他方の手の甲で口許を拭うようにしながら、ゆらりと柏尾を睨み付けた。
「ふざけるのも大概にしてください。ここをどこだと思ってっ……」
けれども、そうして抗議しようとした時、背後で扉を叩く音がした。
「失礼します。チーフ、手が空いたら休憩行ってくださいね」
言いながらドアを開け、顔を出したのは篠原だった。それに柏尾が片手で応えると、次いで篠原は宰に目を向けた。
「と、美鳥もこれからだろ。瀬川ももうフロア出たから、このまま飯行って大丈夫だよ」
「あ、じゃあそうさせてもらいます」
いつもと変わらない篠原の態度に、少しだけほっとする。
柏尾との関係は、別に必死に隠していることではなかった。知られたら知られたで構わないと思っているし、だからこそ近場の店やホテルを使うことも少なくないのだが、さすがに職場でどうこうとまで思われるのは本意じゃない。
「あ、でも今だとコイくんが付いていっちゃうかな」
と、篠原が防犯カメラの映像を見て小さく肩を竦める。
その言葉と画面に映る優駿の姿に、今更心臓が不自然に跳ねた。
画面の中の優駿は、相変わらず能天気に笑顔を振り撒き、そしてその唇はたびたび『美鳥さん』と発している――ように見えるのは錯覚だろうか。
否、その刹那、不意にカメラの方を見た優駿は確かに「美鳥さーん」と口にした。
「え、これ向こうから見えてんの?」
成り行きでそれを一緒に眺めていた柏尾が、揶揄めかして苦笑する。篠原も隣で目を丸くして、
「ほんとだ。これはますます逃げられないような……」
「裏から出れば見つかりませんから」
そんな二人に宰は努めて冷静に返し、「じゃあ、休憩行ってきます」と、後はそれだけ残して部屋を出た。
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