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7.好きなら回れ右をしろ(8)
* * *
数時間が過ぎ、陽が西の空に沈み始めても優駿は目を覚まさなかった。
それだけ疲れていると言うことだろうか。よく見れば酷く憔悴しているようでもあり、こまめに整えられていた印象の短髪にもあまり手入れがされていないように見える。
しかし、だからと言ってこのままいつまでも放置しておくわけにもいかない。いい加減「業務妨害だ」とたたき起こすべきなのだ。
時間を置いたことで、宰も幾らか冷静さを取り戻していた。実際問題、周囲からの視線もそろそろ堪え難い。幸い、薫は所用で席を外しているし、客の切れ目も重なっている。
宰は覚悟を決めて声をかけた。
「小泉さん、そろそろ起きてください」
しかし、優駿は何も応えなかった。
「小泉さん、寝るなら自分の部屋に帰ってからにしてください」
少し強めに言ってみても、目を開けるどころか、身じろぐことすらしない。
長時間座ることを想定していない椅子に座り、机に突っ伏した状態で、こうまで熟睡できるものだろうか。
宰は吐き捨てるようにため息をつき、仕方なく肩を揺すった。
(このやろう……)
それでも優駿はぴくりともしなかった。焦れた宰は小さく舌打ちし、思い切って優駿の耳元に顔を寄せた。
「いい加減にしろよお前……起きろっつってんのが聞こえねぇのか」
そして大仰なほど低く囁いた。
「――っ!」
するとその甲斐あってか、優駿は弾かれたように顔を上げた。吐息が掠めた側の耳を押さえ、きょろきょろと挙動不審に辺りを見回す。
「おはようございます。もう夕方ですよ」
宰は何事もなかったように身を引いて、姿勢を正し、あえて笑顔でそう告げた。
「え、あ、お、おはよう、ござっ……」
反射的に返そうとする優駿だったが、どうにもろれつが回らないらしい。遅れて、その視軸が宰を捉えた。
「みっ……」
状況の把握はまだできていないようだった。それでも、目の前に誰がいるのかは瞬時に理解したようで、優駿は驚くあまり、勢い余って椅子ごと後ろにひっくり返った。
ガターン! と派手な音が店内に響いた。その光景に、「またか……」と宰は目を覆った。
「ご、ごめんなさい、すみません美鳥さん!」
「分かったから早く椅子を起こせ」
心底呆れたように嘆息すると、優駿は慌てて椅子を起こした。改めて背筋を伸ばし、ぱたぱたと衣服をはたく。その仕草に、思いの外砂埃が舞った。
店の床はそんなに汚れていただろうか。その様が少々気になったものの、宰はひとまず話を進めた。
「それで……今日は何の御用ですか」
本当は、他にも言いたいことや聞きたいことはたくさんあった。しかし、それを口にすると何かの箍が外れてしまいそうで、結局は仕事を優先してしまう。
「用があるなら座ってください」
努めて普段通りに促すと、優駿は大人しく椅子に戻った。
「あ……あの、今日は俺、携帯の機種変更がしたくて」
「機種変更、ですか」
宰が反芻するように呟くと、優駿は「はい」と強く頷いた。
「俺の機種代の支払いって、もう終わってますよね」
「そう、……ですね」
「それなら、変更しても大丈夫なんですよね」
「大丈夫というか……まぁ、はい」
大丈夫かと言われたら、大丈夫だとしか言えない。もともと変更しようと思えばいつだってできるのだ。ただ、ここで優駿が訊いているのは、宰が以前説明した〝二年使えば〟という話のことだろう。
「あと、なんか、えっと……機種代は一括でも払えるって聞いてっ……」
「ええ……払えますけど」
寧ろ知らなかったのかよ、と思わずにはいられない。今までがいかに店員の言うがままだったかがよく分かる。
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