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番外編3『ある春の日のこと。』(16)

「宰さん、ああいうの好きなんですか?」 「え……」  問われて目を戻すと、優駿は床の間の方を指差した。 「あ――…、まぁ、好きか嫌いかで言えば好きかな」  正直価値はよくわからねぇけど、と付け足しながら、宰はおずおずと頷いた。するとさっきまでの様相が嘘みたいに、優駿の空気がふわりと和らいだ。そこに浮かぶ、きわめて嬉しそうな笑顔。不思議に思った宰は、僅かに眉をひそめた。 「俺が今日旅館に来た理由ですけど……。実は、優子さんに頼まれてた花瓶を届けるためだったんです」  そう言った優駿は、はにかむように笑みを深めた。しかし宰にはまだ理解できない。もちろん、理解できないのは話の内容ではなく、優駿の反応の方だ。  そんな宰に、優駿が答えを告げる。 「宰さんが好きなら、今度また、ああいう感じのを作ってみます」 「……え、作……? ――って、あれ、お前が作ったのか?」  思わず目を瞠り、今度は宰が床の間を指差す。 「はい。今回持ってきた花瓶に比べると地味ですけど……、出来上がりとしては自分でも気に入っていたので、宰さんにそう言ってもらえて嬉しいです」  こくんと頷いた優駿は、くすぐったいみたいにそわそわとしながらも居住まいを正した。 「え、じゃあ、もしかして夕食食った部屋に飾られてた掛け軸――水墨画? も……?」 「いえ、あれは俺じゃないです。あれは確か、優子さんのお父さんが描いたものだったと思います」 「そっか……。……あ、いや、どっちにしても、やっぱ住む世界が違う……」  宰は信じがたいように呟き、呆然とした心地で目元を押さえる。堪えきれず深く長い息を吐くと、慌てたように優駿が顔を覗き込んできた。 「あ、それなんですけどっ……」 「……なんだよ」 「宰さんはよくそう言うけど、例えば俺の名前がなんで“優駿”なのかとか、聞いたら絶対、案外普通じゃんって思うと思うんです」 「は……? え? いきなり何の話――…」  宰が胡乱げに目を細めると、優駿は身を乗り出すようにして言った。 「父が大の競馬ファンだからなんです! 知ってます? 優駿の意味。元々は特に優秀な競走馬って意味です。父がはっきり言ったんです。競馬用語から取ったって。 ね? これって全然普通でしょ?」 「競馬ファン……」  “優駿”という言葉の意味には、単に“優れている”という意味もあったはずだ。しかし、父親がはっきりそう口にしたなら、名前の由来自体はそれが本当なのだろう。そういうことなら、確かに親近感もわくかもしれない。  宰は競馬はやらないが、知人にも競馬好きは何人かいる。行きずりで関係を持った相手が、ただ見ているだけでも熱くなれると語ってくれたこともあった。  それからしても、さほど珍しくもない趣味だ。そこから名前を考えたと言われれば、 (まぁ、普通って言えば普通……か?)  と、思えなくもない。 (でもなぁ……。まぁ、いいけど)  宰は顔を覆っていた手をずらし、ちらと優駿の顔を見た。  優駿があまりに必死に言い募るから、絆されてしまっただけかもしれない。それでも、実際いくらかは気が楽になった感もあり――。  なのに、 「馬が好きなのか? それとも賭け事?」  それならと気を取り直して尋ねた宰に、優駿は笑顔でこう答えた。 「えっと、今はどっちも、かな。もともとは純粋に馬が好きで始めたことだったらしいんですけど……今では何頭かのオーナーにもなってて。だから結構自分の馬には注ぎ込んでるみたいです」 (オーナー…!)  その瞬間、宰の中で全てが振り出しに戻った。 (やっぱり世界が違うじゃねぇかっ……)  単なる競馬好きは知り合いにいても、馬主の知り合いなんて宰にはいない。  宰はふたたび絶句して、もう何も考えたくないとばかりに目を閉じた。

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