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番外編3『ある春の日のこと。』(15)

 優駿が謝るのも無理はなかった。  温泉に入るなり始まった情事は、宰が何度「もう無理だ」と訴えても終わらなかった。辛うじて意識があるうちに、せめて部屋に戻りたいと求めても、優駿はまるで聞こえないみたいに身体を揺さぶり続け、結局、宰が逆上せて気絶するまで、その手を緩めなかったのだ。 「まぁでも、今回のは……、俺も酒入ってたし……」  そうかと言って、宰に非がないとも言えない。躊躇う優駿を強引に誘ったのは宰の方だったからだ。だから一概には責められないと、少しだけなら反省もしている。それにしても限度があるだろうと、思わずにはいられないけれども。 (……若いってすげぇな)  六つの年の差が大きいのかどうかは分からないが、少なくとも宰にはもうそこまでの元気はない。  宰は目の上に腕を置き、顔を隠すようにして自嘲気味に笑った。 「そう言えば、優子さんにも言われたことがあります」  と、宰の横で正座をしたまま、優駿が不意に口を開く。宰が「何を」と短く問うと、 「あ、あなたは、夢中になると周りが見えなくなるとこがあるから、気をつけなさいねって」  優駿は気恥ずかしそうに言って頭を掻いた。 「お前のこと、よく分かってんな」  宰は思わず吹き出すような呼気を漏らした。それから、「なんだ、ちゃんと見てくれてる人もいるんじゃねぇか」と、心なしかほっとした。 「ていうか、お前……。女将さん――春名さんって……」  そこでふと、宰の頭をとある光景が過ぎった。 「春名さんって、もともと俺のこと知ってたのか?」 「え? 春……優子さんがですか?」  宰は目許から額へと腕をずらし、優駿の顔を見た。 「だって今朝……俺のこと、名前聞いただけで『ああ、あなたが』って」 「あぁ、それは……」  優駿は合点がいったように頷くと、記憶を辿るように話し始めた。 「俺がバイトし始めたときに、何があったのって聞かれたことがあって――優子さんは、もともと親族の中でもバイトには賛成してくれてたんですけど。……で、親身になって色々教えてくれた人がいてって話を……」 「……ああ、なんだ」  その内容は、宰が予想したものとは違っていた。  宰の予想は、どうせまた不用意なことを言ったのだろうと、ある意味辟易するものだった。  それがまったくの邪推だったと分かり、拍子抜けしたみたいに力が抜けた。  と同時に後ろめたいような気分にもなり、宰は優駿から目を逸らし、どことない中空に視線を投げた。 「どうしてですか?」 「いや……なんでもない」  不思議そうな顔をする優駿に、独りごちるように言って、緩慢に瞬く。 (ほんとに独りでぐるぐるしてたんだな、俺……)  思い出された柏尾の言葉と相俟って、いっそう自分がばかみたいに思えた。 (――にしても……ほんと豪華な部屋だよな)  ややして、今更ながらも視線を一望させると、床の間に飾られた小振りな陶器が目に入った。  細やかな彫刻がなされた台座の上に、シンプルながらも、品のある茶器が置かれていた。その美しさに、無意識に感嘆の息が漏れる。部屋の名にちなんだのか、清楚な白を基調とし、繊細で淡い桜の花があしらわれたそれは、日頃あまり芸術的な分野に触れることがない宰でも、素直に「いいな」とこぼしてしまうほどのものだった。

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