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番外編3『ある春の日の翌朝のこと。』(余談)

(こ、殺される……)  翌朝、優駿が起きるより先に目を覚ました宰は、命からがら逃げ出すように『桜月』の間を抜け出した。  げっそりとやつれた顔には濃い隈が浮かび上がり、立っているだけで精一杯なほど、足にも力が入らなくなっていた。片手で腰を押さえながら、壁伝いに歩き出しても、思うように前には進めない。  それでも、どうにか気付かれずにやり過ごせたかと、密やかに安堵した時だった。 「あれ? 美鳥?」  朝食前に風呂に行くにも、まだ早い時間だと思っていた。  なのに突然聞き覚えのある声が廊下に響き、宰はぎくりと動きを止めた。恐る恐る顔を上げると、どうみても風呂上がりとしか見えない篠原が、数メートル先に立っていた。 「そっちの部屋って――」  篠原は首にかけたタオルで軽く髪を吹きながら、宰の後ろを指差してくる。宰は慌てて「しっ」と人差し指を立てた。  その瞬間、全身にぴきっと亀裂が入るような痛みが走ったが、何とか堪えて首を振る。 「ん?」  けれども、とにかく静かに、と言う宰の願いはなかなかうまく伝わらない。篠原はぱちぱちと瞬き、僅かに首を傾げつつも、結局、 「今なら貸し切りだぜ、風呂。最高」  より清々しい笑顔で再び口を開いた。 「……っ」  悪気がないのはわかっている。わかっているが、思わず顔が引き攣ってしまう。  宰はいまにも崩れ落ちそうになる身体を何とか奮い立たせ、とにかくその場を離れようと足に力を込めた。  共に目覚めるまで腕の中にいると思っていた宰が、いつの間にか消えているのだ。それに気付いた優駿は絶対に外まで追ってくるだろう。  幸か不幸か、朝食まではまだ時間がある。そうしてまた優駿に迫られでもしたら、今度こそ宰は何も出来なくなる自信があった。  滅多にないシチュエーション。滅多に見られない宰の浴衣姿。そして改めて実感した宰の気持ち。その相乗効果もあるのだろう、昨夜からの優駿は明らかに普段より情動的で、一旦スイッチが入ってしまうと、宰でもまるで制御できないほどだった。 「あ」  と、不意に篠原が声を出した。  篠原の視線の先――宰の背後で、引き戸が開く音がした。そこから起き抜けのおぼつかなさ全開で転がり出てきたのはもちろん優駿だ。 「待って下さい、宰さんずるいです、おはようも言わずに――」 「うるさい黙れ」  振り返った宰は、必死に優駿を睨み付ける。  それが見えない篠原は、きょとんとしながらも二人を眺めていた。 「あっ、いつもの宰さんに戻ってる」 「黙れって言ってんだろ」 「何でですか、昨夜はあんなに――」 「あーもう、うるせーよ! 何度も言わせんな!」  けれども、宰がどんなに低く凄んでも、どんなに威圧的な態度をとってみても、優駿にはかけらも通じなかった。 「今度は二人で旅行行きましょうねって、話したじゃないですか。あれ、いつにします?」  恐らく、優駿の目に篠原の姿はまったく入っていないのだろう。昨夜の酒が残っているのかと思うほど、浮かれた様子の優駿に、宰はついにしびれを切らし、 「うるせーって言ってんだろ! 死ね!」  と、履いていたスリッパを思い切り投げつけた。 「お前となんかっ……今後一切一緒には行かねぇよ!」  吐き捨てるように言って、踵を返した宰の後ろで、見事額にスリッパを浴びた優駿がばたんと倒れた。  それに構わず宰は歩き出した。軋む身体を引き摺るようにして、それでも一度も振り返ることなく篠原の横まで足を進めた。そしてすれ違いざま、無駄に宣言するように呟いた。 「風呂、行ってきます」  今度こそ疲れを取るために温泉に浸かるのだと、心に固く誓いながら。         END(短編に続きます)

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