89 / 93

短編1『後輩Aの独白』

「お久しぶりです。憶えてます? 俺のこと」  俺の問いかけに、先輩は何も答えなかった。  何も答えないどころか、顔すら上げてくれない。  本当に忘れてしまったんだろうか? 「美鳥さん? ……いや、美鳥先輩って言った方がいいのかな」  でも、何となく反応があるから、完全に忘れてしまったわけじゃなさそうな気もする。  だとしたら、恐らくそれはもう俺のことなんか思い出したくないってことで、 「嘘、マジで憶えてなかったりします?」  そう考えると――案外ショックは大きかった。  ……? ショック?  何で俺がショックを受けるわけ?  え、マジで意味がわからない。   それをごまかそうと大袈裟に苦笑してみる。  だけどそのかいもなく、胸の奥が締め付けられるようにせつなく疼いた。 「ねぇ、先輩。俺だよ? あんなに先輩が――」 「ちょっと君、宰……美鳥に何か用? 悪いけど、こっちは急いでるんだよね」  自分でもよくわからない心に必死に蓋をして、せめて昔みたいにと笑って先輩の肩に触れようとしたら、寸前でその手が空を切った。  気が付くと、傍にいた長身の男が、先輩を後ろに庇うようにして俺の前に立っていた。  ――なんなんだよ。  て言うか誰だよ、そいつ。 「――…」  俺は束の間閉口した。  周囲の喧騒――どこからか聞こえる酔っぱらいの笑い声や、学生が騒いでいるような声なども耳には入らない。  もしかしたら、あんなに先輩が好きだった俺、とでも言うと思ったんだろうか。だから先を言わせなかったとか?  ……本当は、あんなに先輩が可愛がってくれてた俺、って言うつもりだったのに。  しかもこいつ、『宰』って言ったよな? 言い直したけど。つか言い直すなよわざわざ――。  ……何だかイライラしてきた。  それを自覚した時、男の後ろで先輩が顔を上げた。 「……へぇ」  何だかそいつに守られてるみたいだね。  自然と漏れるため息を隠さず、俺は僅かに目を細めた。 「先輩、まだ男が好きなんだ」  わざと嫌な言い方を選ぶ。  嘲るような眼差しで、先輩に傷をつける。  目の前の男じゃなく、先輩だけをまっすぐに見据えて――これからもずっと忘れられないように、先輩の中に俺の存在を深く刻みつけたいと思った。  なのにそれをまた邪魔された。 「君に関係ないよね」  関係ないのはどっちだよ――。  思わず言いかけた言葉を咄嗟に飲み込む。そんな自分が自分で信じられなくて、逃げるように視線を落とした。  俺はいったい何をしているんだろう。何がしたいんだろう。この男と先輩について言い合う必要も理由もあるわけないのに。  いま、この瞬間――本当に関係ないのはどう見たって俺の方なのに。  思い至ると、もう吐き捨てるようにしか笑えなくなった。 「そうですね。今更もう関係ないですよね」  そして再度先輩を見て、申し訳程度ながらも頭を下げた。 「――突然声かけてすみませんでした」  あとは誰の返答も待たずに踵を返し、そのまま振り返ることもなく来た道へと歩き出す。  最後に先輩の声が聞きたかったと思ったが、そう思ったことにも気づかないふりをした。  だって結局先輩は一言も口を利いてくれなかった。そんな先輩にこれ以上しつこくもできない。  先輩と離れていく距離を思いながら、そこまで嫌われてしまったんだなと改めて実感する。  先輩、ごめんね。  今更言えたことじゃないけど、俺、先輩が嫌だったわけじゃないんだよ。  本当に嫌だったら、酔った勢いとは言え男なんて絶対抱けない。  だからってそう認める勇気も踏み出す覚悟も持てなかった俺は、全部先輩のせいにして逃げたんだよね。  そんな俺を先輩が許すわけない。いくら優しい先輩だって。いくら年下に甘い美鳥さんだってきっとずっと許さないよね。  ――だから絶対気のせいなんだ。  先輩が俺に「ごめんな」と言ってくれたなんて。  俺は込み上げた涙を隠すようにそっと目を閉じて、 曲がり角を曲がった。  ただ、これだけは言わせてください。  俺、先輩の顔がまた見られて嬉しかったよ。本当だよ。            END(短編2に続きます)

ともだちにシェアしよう!