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第1話
騒々しい夜の街の隅に腰を下ろして、忙しなく行き交う人を見ていた。地震が続き、海沿いのこの街に留まることはどこか不安があったがどこに行こうとしていたのか、どこかに行こうとしていたという自身の目的の有無さえ分からず、海へと伸びる川ばかりが入り組んだ遊歩道の柵に背を預ける。休憩するような場でもないところに座り込む少年に時折心配の目が向けられることもあった。
「くそがき」
鼻腔を突き刺すような異臭と香水の香りに包まれた千鳥足の男が少年の前に立ち止まり言葉の割りに優しい口調で声を掛けた。覗き込むように上体を屈め、何か差し出した。街の遠くの強い明るさに、近くの男は真っ黒に塗り潰されていた。それは夜の街に流れ出る物乞いへの施しだった。男の差し出したものを両手で握り込む。短い筒状といった手触りで、柔らかく、潰れている。千鳥足の男は通行人や柵や街灯にぶつかりながら去っていく。紙幣を持っていたことに気付くより先に少年は、お父さん!と叫んで男を追った。
目覚めたところはブドウの皮に似た色をした暗い部屋だった。照明が点いてはいるが、壁や絨毯はブドウ色で隅まで光は届かず、薄暗く感じられた。たばこの匂いと香水の匂いと酒の匂いが充満している。近くのテーブルにある、色彩を閉じ込めた分厚いガラスの灰皿に紫煙が揺らめいたままの紙巻きたばこが縁の凹みに留めてあるのを認めると少年はふと衝動に駆られて火の付いた先端をガラスへ押し付ける。棒状を保っていた灰が潰れ、それから短くなっていく持ち手も折れた。
少年は素裸で、唯一身に纏っていた麻の衣は剥がされていた。厚手のタオルを掛けられ、長椅子に寝ていたらしかった。現状が掴めずにいると、扉が開く。入ってきた、大きな紙袋を持った白髪混じりの眼鏡を掛けた中年男性が少年を見て固まった。少年もまた身構える。
ああ、目が覚めたんだね。
眼鏡の中年男性は強張った調子で紙袋を少年に差し出す。
「父さん?」
少年は眼鏡の中年男性の容姿を眺めてから首を傾げた。眼鏡の中年男性は青褪めた顔で力強く首を振った。
君のお父さんは、今お店に出てるから…
少年は頷いた。眼鏡の中年男性は、大きな紙袋からさらに油の染みた紙袋を出して、少年に君のお父さんからだよ、と言って食べるように言った。温かい食べ物の匂いに少年の腹は轟いた。
「ありがと」
眼鏡の中年男性は困ったように笑って、紙袋の中の服を着るように言ってまた退室した。少年は紙袋の中の揚げられた細切りの馬鈴薯とトマトやレタス、チーズや肉の挟まれたパン、それからおそらく鶏肉の揚げ物を平らげる。室内に朗らかな音楽が流れはじめ、少年のいる部屋にぞろぞろと人が入りはじめた。身形の綺麗な中年男性ばかりで、素裸のままきょろきょろしている少年を一瞥しては特に興味も無さそうに着替えはじめ、部屋から出て行った。また室内に1人残される。たばこの匂いと香水の匂いが溜まって、酒の匂いに頭がぽやりぽわりと浮ついた。扉が乱暴に開いて、よろよろと、待っていた"父さん"が現れた。ひっく、ひっくと吃逆を繰り返し、足を引きずりながら、左右に大きく揺れて少年の元にやってきた。
「おうおう、やってっか~どこんちのぼうやだ?え?」
素裸の少年の首に腕を掛け、高く裏返った声を上げる。40代後半くらいの男だった。少年の柔らかな頬にちゅっと音を立てて唇を当てる。そして整えられた髭を擦り寄せる。
「父さん…じゃないんですか?」
「お父ちゃんだぁ?」
酒の匂いを吹きかけ、赤ら顔の男は少年の顔をまじまじと見つめてからまた吃逆した。蕩けた瞳がぐるりと宙を見回す。何か考えているらしく、あ~とかう~とか唸りながら人差し指を少年に向ける。少年は向けられた指を両の指で握る。触れられたのが不快だったのか人差し指は少年の長く細い指を払った。
「…おりの息子にしちゃ随分小奇麗な顔してんなぁ…」
幾人かの女性の名を連ねて少年の様子を観察している。
「名前はどこの何って言うだい?」
どこか愉快げだった赤ら顔を顰めて男は問う。少年は男の鋭くなった眼差しに怯える。
「おお、ごめんなぁ。何もぼうやを怒ってるわけじゃないんでさ」
厚い掌が少年の頭にのり、太い指が黒髪を梳いた。
「名前……俺の名前、知らない?」
「そんなもんおりが知るわけありませんや!貼っ付けて落としたわけでもないでしょうに。お母ちゃんの名前は?それも分からんとか言うかぃ?」
少年は男の掌を頭に乗せながら俯く。
「俺…お母さん、いるの?」
「お前さんは絶滅した鸛鳥 が連れてきたってかい?それじゃあ何か?鸛鳥は誘拐犯だったとでも言うんですかい?」
少年に頭突きせんばかりの勢いで前にのめった。
「…違うの?お母さん、いるの?会いたい…」
少年は見るからに落ち込む。中年男は頭を掻いた。困ったぞぃと呟く。
「お父さんが、お父さんじゃないんですか」
深い赤の瞳を潤ませ、直感で父親だと思った中年男を見上げる。中年男は髭面で可愛らしい顔立ちの16歳ほどの少年をまじまじと観察しながら桜色の唇についた、先程の揚げ芋にまぶされた塩を指で拭う。
「勘弁してくりや。この前娘っ子を嫁に出したばっかりってのに、なんでまたガキなんざ育てにゃならん?」
「お父さん…じゃ、ないんだ。…全然、分からなくて。本当に、俺のお父さんじゃないんですか?」
「おりにいたのは娘っ子さね」
下唇を噛んで少年はまだ諦めきれないようだったが中年男は肩を竦める。
「おりはエヴァンタっていうんでさ」
「エヴァンおじさん?」
「ぼうやは…名前知らないんだっけかい…あ~、シェルキオで、チェリーちゃんだ。いいね、チェリーちゃん。おりの娘っ子が可愛がってたうさぎちゃんだ。おりもそのほうが呼びやすい。な、チェリーちゃん?異論はない?」
少年…、たった今名を与えられたシェルキオは何度も頷いた。エヴァンタは、ほほほと高く笑う。
「チェリーちゃん…!」
何か宝物を見つけたようにシェルキオは喜んだ。
「するってぇと何かい。記憶障害かい。若ぇのがなる認知症かい」
エヴァンタは紙袋から服を出しシェルキオに手渡す。
「着ねぇ。素っ裸はまじぃよ」
レモンイエローが眩しい大きく開いたノースリーブのスウェットパーカーと白のジーンズ、黒のインナー。そして紐の付いたペンギンの平べったいぬいぐるみ。
「3000カルディアあれば足りるかい」
ペンギンの平べったいぬいぐるみをエヴァンタは掴んだ。エヴァンタは紙幣を出しすと背面にファスナーがあるペンギンの胴体に捩じ込んだ。
「可愛いかろ。うん、黄色いんに映えよるわ。うん」
黒のインナーの上に、レモンイエローのノースリーブを着ているシェルキオの腹にペンギンのぬいぐるみを合わせる。セルリアンブルーにインディゴブルーの影を落とすペンギンのぬいぐるみが鮮烈に浮かんだ。
「あ、えっと…」
「ガキが貧しい思いするんはいけんわな」
鮮やかな赤の紐をシェルキオの首に通しし、黒髪を乱す。
「でも…」
「まあ、何するにも金は要るろう。疚 しかったら肩揉みでもしてくりや」
「はい」
肩を指しエヴァンタは笑った。
「当分は狭ぇけどうちにいたらいいや?」
「エヴァンおじさんの、自宅ですか?」
「そ。まぁ、お前 さん細っこいし、良かんべな」
2人並んで話していると扉が開く。黒髪混じりの銀髪を撫で付けた、知的な美しさのある青年が現れる。赤く細い下半分縁取 の眼鏡が光っている。20代後半といった年の頃で、部屋に入ると辞儀をした。切長い吊り気味の翠と蒼のヘテロクロミアの視線に捉えられる。
「おお、オーナー!がはは!いきなり息子ができましたわ」
おおらかに笑い声を上げ、シェルキオの背中を強く何度も叩いた。
「お話中失礼します。初めまして。コレイゾンハーヅのオーナー、ティラパッツァと申します」
「がはは!こいつぁシェルキオってんだが、今名付けたんでさ」
「シェルキオと申します…あの、お邪魔していま、す」
無表情のティラパッツァと名乗った青年はよろしくお願いしますと、握手を求め、シェルキオもそれに応じた。触れた瞬間に煌めいた霧状の光が舞ったが、ティラパッツァは繋がれた手を見ているシェルキオを観察し、エヴァンタもその繋がれたら手のことなど見ていなかった。
「行き場がないんだってよ。迷子なのに記憶もねぇんでさ。オーナーもなんかそれらしきこと聞いたら教えてくだせぇまし」
口を開いたエヴァンタからそのままシェルキオへ視線を戻す。
「勿論です」
「ありがとうございます」
冷淡な印象のある顔立ちのせいか睨むような蔑むような無表情だが、シェルキオが礼を言うとわずかに綻ぶ。
「お前さんかわいいから、外へ行くときは気を付けるんだぞぃ。オーナー、よろしぅ、よろしぅ」
ティラパッツァは無表情が嘘のように微笑した。柔らかい。
「ええ。それから次のシフトです。では、気を付けてお帰りください」
恭しい態度でティラパッツァはまた辞儀をして退室する。
「さぁ、帰ろうや!な?」
エヴァンタはシェルキオの手首を掴み歩き出す。乱雑な仕草が懐かしく感じられた。
「おとう…エヴァンおじさん」
エヴァンタはシェルキオを一瞥してからげらげらと笑った。
「懐かしいや!おりの娘っ子とこうして帰ったからねぇ」
エヴァンタの少し緩んでいる指から手首を外し、手を繋ぐ。怒られはしないかと見上げると、にかりと歯を見せた。
エヴァンタは顔が広いのか道すがら様々な年齢層、様々な職種の人に話し掛けられていた。撞球を打ちに行こうだの、飲みに行こうだのという声から始まり、この前の礼だの、作り過ぎたから持っていけだの、いいのが獲れただとか、シェルキオの両手も塞がるほどの荷物になっていく。
「悪ぃな。へへっ、晩飯は焼き魚かね」
海沿いの遊歩道で出会った漁師風の格好をした者から渡されたスチロールの重さを確かめながらエヴァンタは言った。
「風呂洗って、飯炊いて…寝床だなぁ。娘っ子のベッドでいいかね?まぁ、あれなら一緒に寝たらいいや」
えっ、とシェルキオは目を丸くする。見ず知らずの女性が使用していたベッドを使うことに気恥ずかしさがあった。エヴァンタは全く気にした様子はなかったがシェルキオの反応を見ると、おりのとこで寝るか?と訊いた。頷く。
「汚ねぇぞ?」
「一緒に寝ます」
「一緒にか?たまげたね。こんな薄汚いおじさんと同衾したいだなんてね」
水上都市エリプス=エリッセを内陸側に出ていき、西に少し歩いた先にある閑静な住宅街へ入っていく。寝静まっている時間帯で、明かりの点いている家を数えたほうが早いくらいだった。
「この辺りにも見覚えはねぇんかい」
「ないです。さっきの街と比べて随分静かですね。何か不祥事でもあったんですか」
エヴァンタはげらげら笑った。不祥事なんてねぇさ!と静かな区画に響く。
「就寝用住宅街 なんさ。寝るためだけに帰ってくんだよ。まぁ、あっち側にずっと行くとえれぇでっけぇ街があってな、ぼうずだったら見上げてひっくり返 るくらい高いビルがいっぱいにょき~り生えてんさ。そこにもこんな感じの静かな町があんだよ」
「でっかい街…?」
シェルキオの脳裏に夜景が浮かぶ。摩天楼だらけの土地。オレンジやグリーン、ホワイトに光り、時折ブルーがぽつぽつと見える。知らない地で、どこかで見たという覚えもない。
「行きてぇか?今度連れて行ってやるよ。まだぼうずがおりンとこいたらな!がはは」
「お、お世話になります」
エヴァンタはシェルキオを古びたアパートへ案内する。真っ暗な区画にあり、段数は少ないものの急な階段を上がる。錆びた階段が軋んだ。アパートの敷地内と思われる雑木林に最も近い角部屋で、玄関扉の脇の柵には伸び放題の木の枝が引っ掛かっていた。
「ほり、入れ」
シェルキオの背を押して玄関扉を開く。珍しく靴を脱ぐ框 が設けられている。気付かず進もうとした襟首を掴まれた。ここで靴脱ぐんでさ、それも忘れちまったのかいや。買ってもらったばかりの編み上げブーツを脱いでいる間に、穴の空いた靴を脱ぎ捨てエヴァンタは短い廊下の奥へと消えた。
「へへっ、今から飯作るから座ってろいや」
明かりがついて行く。廊下の奥がキッチンで、1歩ほど歩いた右が居間で、3歩ほど歩いた左に寝室があるらしかった。その2部屋を覗きながら貰った物たちを並べてエヴァンタの後を追い、キッチンへ顔を出す。キッチンにバスルームがあるらしかった。
「いつも帰り、遅いんですか」
「バーだからな。昼起きて夜働いて朝寝るんでさ。みんなそうよ?ンでもガキは早く寝るこった」
「エヴァンおじさんを追ってたのは、なんですか」
エヴァンタは振り返って、首を傾げた。
泣いている。青年が暗い箱の中で啜り泣く。車だと何となく思った。顔を覆って身を震わせ、声を殺しているが漏れてしまう。手の甲に当たる赤い針金のようなものは耳に掛かっていた。銀髪に混じった黒髪はきちんと固められていた。名前を思い出そうとした時に目が覚めた。腹に毛だらけの太い素足が乗っている。紙を破いた時の音に似た鼾 が隣から聞こえる。床に雑に敷かれた布団から転げ、腹を出したまま寝ていた。1人で寝るのを嫌がってしまい、エヴァンタは嫌な顔ひとつせず、抱き竦めるようにして寝てすぐに寝落ちた。ゆっくりと腹に乗った脚を戻し、布団を掛けなおす。この地は温暖な気候であるため薄手のタオルケットだった。時間を確認したくなって、窓を覗く。寝室の窓は雑木林でほとんど塞がれていたが木々の隙間から青白い空が見えた。枕元に置いたペンギンのポシェットを首に賭ける。
「うぅ~ん。うん?あぁ」
中年の男は目を覚まし、上体を起こした。シェルキオの存在を忘れていたらしく二度見し、納得したように少年の寝癖のついた黒髪をわしわしと撫でた。
「出ていくんかい」
大したこともなさそうに、見返りを求めることもなく、野良猫と別れるくらいの調子で訊ね、返事も聞かずにもう一度寝ようとしたエヴァンタに先程脳裏に描かれた青年の話をする気になった。
「あ、あの、オーナーさんの、」
「オーナー!そう、オーナー!まただ!」
両手を鳴らし再び素早く起き上がる。慌てた様子でキッチンの奥に消える。水道の音がした。
「エヴァンおじさん?」
「ちょっと山行ってくるから!」
「俺も行きます!」
つられてシェルキオも焦りを感じ、エヴァンタの後に続いて顔を洗う。タオルから顔を上げると、そのまま顔面に布を投げ付けられた。胸元が草臥れたシャツだった。胸元に『私は熊』と紺色のテキストが入っている。エヴァンタは頻りに「ただならない、これはただならないぞ」と呟いていた。支度を済ませ、編み上げブーツに足を突っ込み、落ち着かない中年男と走り出す。
「なんだって死にたがるもんかね」
早朝もまだ町は静かで、空は白く斑らに曇っていた。
「死にたがっているんですか」
「おぅよ。困ったもんさ」
時間帯のせいかやる気の無さそうな運転手の乗る公共交通自動車 を捕まえると飛び乗り、エリプス観測所まで!と大声でエヴァンタは叫んだ。
「多分、無事だとは思うんですが、」
頭の中に流れ込む光景。大きく歪んだハンドルが胸元に迫り、身動きがとれそうになかったが青年は己の置かれた状況に焦る素振りもなく、ハンドルに肘がぶつかることも構わず啜り泣いている。
「そうなんだよ!そうなんだよ、チェリーボウズ。あの人 は海に身投げしても焚火に入り込んでも無事 なんさね。一体どんな絡繰りがあるんかね!」
動き始めた車内でエヴァンタは大声で喚いた。
「ティラパッツァさんって、本当にあのお店のオーナーなんですか?」
「オーナーなんは間違いねぇさ。ただ…色々噂があんだよ。噂がな。一人歩きする噂さね」
「どんな、ですか」
「そら恐ろしい噂さ!そら恐ろしいよ!なんたって人の噂は尾鰭背鰭牛ヒレが付くもんだからさ!」
ひとり盛り上がったエヴァンタから聞き出せそうにはなくシェルキオは諦める。
エリプス観測所は緩やかな山道を登った山というには少し低いくらいの山にあり、そこから連なった山の頂にある発電所に行くまでの休憩所にもなっていた。到着すると運転手に代金を払うエヴァンタを車内に残し、シェルキオは観測所の広い駐車場のガードレールを見渡した。どこにも突き破った痕跡はなく、山道へ出る。もう少し上の道だ。大きくカーブした道を見据える。
「おいおいおい、お前 まで迷子になると困る!」
シェルキオのシャツを掴み、息を切らした中年男も少年の視線の先を追った。
「あっちだな」
観測所の駐車場の前にある崖を見上げ、エヴァンタはシェルキオを置いて道を進んでいく。
「エヴァンおじさん。エヴァンおじさんも迷子になっちゃいます」
「迷子なんてトシじゃねぇや。遭難者だよ、遭難者」
歩行者用に設けられた道は非常に狭く、歩行者はいないことが前提とされてさえいた。一列になって坂道を登る。エヴァンタは手をひらひらと振って否定した。ガードレールを確認しながらカーブに沿っていく。あれだぃね、とエヴァンタが立ち止まったためその背中へ激突する。脂ぎり、臭そうな雰囲気に反し洗剤の優しげな香りがした。
「おお、悪ぃ。あそこだ、あそこ」
ガードレールとガードレールの間が開いていた。シェルキオは走り寄り、木々の生い茂る斜面を覗き込む。エヴァンタは膝を痛がりながら、危ねぇよ、落っこちるよと斜面を下らんばかりのシェルキオを案じた。空は少しずつ明るくなっていたが、木の枝が折れ地面の擦れた斜面に光は大して届きはしなかった。地が揺れる。慣れてしまったが、エヴァンタは、どひぃ!と叫んだ。
「ぼうず!危ねぇぞ、ぼうず!」
「ちょっと見てくるだけですから。エヴァンおじさんはそこで待っててください」
言い終わった直後に緩やかな地の揺れが大きくなる。履き慣れないブーツで足首が固定され、転倒しそうになるが持ち堪えた。蹴ってしまった足元の小石が斜面を転がっていく。中々おさまらない地震に保護者は騒いでいた。ゆっくりと斜面を下っていく。少し無理矢理な獣道的道を辿つまていくとすぐに見つかった。ブレーキランプが点滅し、居場所を主張している青い車の後姿がそこにあった。急いた足が小枝や蔦につまずいたが持ち直し、上体を前のめりにした体勢のまま運転席を覗き込む。ガラスは窓枠の歪みによって蜘蛛の巣がひびによって描かれている。フロントガラスにいたっては粉々になり、車体の進行を防ぐ大木に沿ってボンネットは潰れていた。霰のようなガラス片を浴び、胸元にまで迫ったハンドルに突っ伏しているのは銀髪に黒髪が部分的に混じった特徴のある髪色の青年だった。見たところ大きな怪我はないが、下半身やシェルキオの立つ反対側まではよく分からなかった。
「ティラパッツァさん」
浅く亀裂が入っただけのガラスをノックする要領で叩いた。居眠りをしているかのようにハンドルに両腕を折り畳み顔を埋める青年は反応しない。
『どうして!なんでだぁ!なんで!』
冷静な印象を受ける銀髪の青年の嘆きが聞こえる。鼓膜を通さずに。地が揺れる。先程のよりも緩やかに、幅の大きい揺れだった。車体が揺れる。
「ぼうず!」
エヴァンタが呼んだ。それは尋常でない響きを持ち、斜面を見上げる。人型の黒い影がいくつもある。振り払う少し太い腕。エヴァンタに初めて会った日にエヴァンタを追っていたもの。あの日、シェルキオはいくらか肥えたその身体を背後から抱いて用水路に転落したのだ。
「エヴァンおじさん!」
激しい揺れに進むことは許されない。鮮やかな海の色をしたメタリックカラーの車を振り返る。シェルキオにはまだ嘆きが聞こえていた。
「ぼうず!逃げ!逃げ!ぼうず、逃げ!」
弱まりつつ地を這うように上がった。歩いても歩いても進んでいないような感じがあった。人の形をした影は3体。エヴァンタの両腕と片脚を掴んで攫おうとしているように見えた。それらが本当に人を模しているのならば頭部にあたる一斉に回り、シェルキオのほうを見た。
「エヴァンおじさんを放してください」
話の通じる相手だとは全く思いもしなかった。行動と予想は逆で、そして予想に反して人型の黒い影を消えていく。体勢を崩したエヴァンタはアスファルトに舗装された地に転ぶ。来た時はなかった亀裂が道路に長く走っていた。
「大丈夫ですか」
上体だけ起こし両手の砂利や土を落とすエヴァンタの前に横向きに屈み、肩を差し出す。たまげた、たまげたと蒼褪めながらも笑い、シェルキオの細い肩に手を掛け、若い力を借りて立ち上がった。
「ところでオーナーは?」
「無事ですね。怪我の有無は分かりませんが、生きてます。少し元気なくらいかも知れないです」
「少し元気?」
エヴァンタの疑問は耳に届かず、突き破られた、ガードレールがあったであろう斜面を見下ろした。
「オーナーさんって一般 の人ですか?」
「なんだい、するってぇとオーナーは特殊な人だとでも言いたいんかい」
2人は数秒ほど黙り込んだまま互いを見つめた。エヴァンタはシェルキオをどうなんだい?と答えを待っているようでシェルキオはただ見つめられているから見ていただけだった。何も言わずに斜面を下りる。運転席のガラスを叩くものの、オーナーは動く気配がない。
「ティラパッツァさん、起きてください」
ガラスの中の蜘蛛の巣を叩く。
『なんでだ?どうして!どうして僕はっ!どうして僕は祠官になれないんだ…っ』
ティラパッツァはハンドルに頭を預けたままだ。しかしシェルキオの頭には冷静さを欠いたティラパッツァの叫びが響いていた。窓ガラスを叩いていた手が光り、蜘蛛の巣はさらに濃くなった。もう一度ノックすると砕け散る。
「ティラパッツァさん、朝ですよ。起きるんです」
頭に掛かった眼鏡を取り、歪んだフレームを畳む。両腕に預けた頭が動く。泣き腫らした目がシェルキオを認めた。
「おはようございます、ティラパッツァさん。どこか痛いところはないですか」
「……おはようございます」
眉間を揉み掠れた低い声で挨拶する。
「冷え込みますね、帰りましょうよ」
半袖の両腕を抱き込んでシェルキオは帰宅を促す。ティラパッツァは黙ったまま顔を背け、大木に潰れたハンドルやボンネットを眺めていた。
「レッカー車を呼びます。お先にお帰りください。…エヴァンタさんにまたお騒がせして申し訳なかったとお伝えください」
「先に帰るだなんて、とんでもないですよ。降りられますか」
傷の付いたドアを開ける。断面図のようだった。ハンドルに上体は動きを大きく制限されていたが降りられないほどではなかった。ティラパッツァは放っておいてほしいという態度を隠さなかったが、従ったほうが面倒でないとでも思ったのかシェルキオの言った通りに狭くなった運転席から降りた。シェルキオが降ってきた木々の生い茂る斜面を見上げている。
「上がりましょう。脚は大丈夫ですか」
「どこも痛みはしません」
ティラパッツァに手を差し伸べる。だがその掌を一瞥しただけだった。シェルキオは汚れてでもいたのかも思ったが汚れと思える汚れはなかった。他人の汗や皮脂や手垢やそのイメージに強い嫌悪を抱く性質の人なのかも知れないと手を貸すことをやめた。
「エヴァンタおじさんも待ってますから、俺は先に行きますね。後から痛くなるかも知れませんよ」
ティラパッツァは俯いていた。シェルキオは言うことは言ったために足場の悪い斜面を登っていく。
「ぼうず!」
上から覗き込むエヴァンタにシェルキオは手を振った。エヴァンタの目は身軽な少年の奥のオーナーへ移る。
「大丈夫か!」
「はい。今のところはどこも痛くないみたいです」
登りきる直前に腕を伸ばされ、掴むと引き上げられ、胸毛がシャツの胸元から見える胸へと飛び込んだ。爽やかな洗剤と少しの生乾きの匂いがした。
「先日はお騒がせしました」
中年男性 バー・ナイスミドルボーイズ=コレイゾンハーヅの裏口までエヴァンタを送るとティラパッツァがすれ違うように現れた。日が暮れかけ、さらには地震による波浪に備え今の水上都市に人は少ない。店名を描くネオンの光を浴びた美青年の顔は不健康に思えた。
「身体の方はもう大丈夫なんですか」
あの車は無事ではなかったが、運転手に於いては外見と発見当時は無傷だった。ティラパッツァはシェルキオの言葉は聞いていないらしく、じっと爪先から脳天までを視線が往復している。目を開いたまま気絶しているのかとシェルキオは首を傾げる。
「ティラパッツァさん?」
髪色とよく合ったグレーのスーツの袖から、磨かれた爪が光る指が伸びた。震えながら「失礼します」と言ってシェルキオの肩に触れた。エヴァンタから借りた緩いシャツ越しに体温が伝わる。湯気に似た光が上がる。シェルキオはわずかに目をさらに開いただけだったが、ティラパッツァは眉を顰めた。歪んだアンダーリムの眼鏡の角ばったレンズにもその光が映っている。
「貴方が、僕の…」
漏れた言葉はどこか待ち焦がれていた者を前にしたような、しかし期待が外れた落胆にも似たものを持っていた。シェルキオはティラパッツァに戸惑い、触れたままの手から後退る。光は途切れた。埃や頭垢 の反射とも見紛える虹色に煌めいた粒子が薄く消えていく。
「シェルキオさん」
「はい?」
オーナーの声に突然不安になった。紙幣3枚が入ったペンギンのポシェットを握る。そうすると落ち着いた。腹の辺りに固い質感があり、押すとキュイキュイと鳴いた。
「いいえ。何でもありません。気を付けてお帰りください」
何か言おうとしていたがシェルキオの反応にさらに眉根を寄せて首を振る。
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