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Prologue

 暗い夜道を歩きながら、知らず知らずのうちに口から重い溜息が漏れた。  ともすると、胸の中を満たすやりきれない思いに泣き崩れてしまいたくなる。  ぐっと口許を引き結んだ莉音(りおん)は、そんな自分を叱咤するようにもう一度大きく息を吐き出すと、両の頬をみずからの手でパンパンと叩いて活を入れた。 「ダメダメ、こんな弱気じゃこの先やっていけない! いつでも笑顔で、前向きに頑張らなきゃ。ね?」  自分に言い聞かせるように呟いて、無理やり口角を引き上げて笑顔を作った。くっと顎を反らして、街灯の光でほとんど見えない夜空の星を眺めやる。  霞のかかった空は、どこかぼんやりとしておぼつかない空気を纏っていた。それでも、冷たい風の中に時折交じる梅の香が、すぐそこまで来ているやわらかな春の気配を感じさせた。  最寄りの駅から自宅アパートまで徒歩一〇分。  だれもいない家に帰ることには慣れているはずだと思っていた。けれど、決してそうではなかったのだと、こんな境遇になってみてはじめて思い知らされる。少しでも気をゆるめると、途端に沈みそうになる気持ちを奮い立たせ、莉音はふたたび歩き出した。その歩調が、いくらもしないうちに止まる。  平日の夜九時過ぎ。決して遅い時間帯ではないが、閑静な住宅が建ち並ぶその一角には、行き交う人の気配は途絶えていた。その静けさの中で、不意に耳にした異様な物音。  低く言い争うような声と、なにかがぶつかり合うような鈍い音。喧嘩だ、とすぐに思った。  入り組んだ路地がいくつも重なり合う住宅街。物音は、すぐ先の交差点を曲がった方角から聞こえてきた。そしてそれは、莉音の自宅アパートがある方向だった。  ――あ、どうしよう……。  莉音は一瞬迷って後方を振り返る。だがやはり、周辺に行きすぎる人はだれもいない。そっと足音を忍ばせて曲がり角に近づき、向こう側を覗き見ると、たしかに少し先の路上に複数の人影が認められた。  ひとりはスーツ姿の長身の男で、その男の正面に黒っぽい服を着た男たちが三人、取り囲むようにして立っていた。服装の違いから、スーツの男と三人がやり合っているのだとわかった。  住宅街であることを意識してか、あまり大きな物音は立てない。だが、それでも時折、低い怒声が耳朶(じだ)を打った。  莉音が見ているまえで、三人のうちのひとりが動いた。あ、と思った次の瞬間、スーツの男が身を(よじ)る。しなやかな動きで攻撃を(かわ)すと同時に、躰を反転させて長い足を蹴り上げた。その足が、相手の脇腹を直撃して屈強な躰がよろめく。多勢に無勢だが、スーツの男は充分に黒服の男たちと渡り合っていた。それでも。  酔っぱらい同士の喧嘩だろうか。それとも、もっと別のいざこざか。仕事帰りのサラリーマンを狙った金銭目的の犯罪。いろいろ浮かぶが、いずれにせよ、このまま見過ごせるような状況にないことはたしかだった。なにより、莉音の自宅は男たちが争っている路上の先にある。  黒服に身を包んだ男たちの躰はいずれも鍛え上げられており、レスラーか格闘家を思わせた。このまま揉めつづければ、大変なことになるに違いない。  思った莉音は、建物の影に身を潜めながらもポケットを探って携帯を取り出した。画面をタップする指がふるえる。この場で電話をかければ、こちらの存在に気づかれてしまう可能性もあった。少しでも危険を回避するため、莉音は場所を移動しようと躰の向きを換えかけた。そのとき。 「危ない!」  鼓膜に突き刺さった鋭い警告と同時に、背後に不穏な気配を感じた。咄嗟に振り返った莉音の目に、すぐ真後ろに立つ黒い影が飛びこんでくる。  自分より遙かに大柄で、屈強な体格をした小山のような人影。  その人物は、手にしたなにかを振りかぶっていた。長い、棒のようなシルエット。咄嗟に思いつくのは、鉄パイプとか特殊警棒といった類いのもので、そのなんらかの凶器を握りしめた手が、勢いよく自分に向かって振り下ろされた。  よけることなど到底できず、莉音は頭を庇うように腕を上げて身を竦める。不意に、上げる角度のゆるかった左腕がぐんっと強く後方へ引かれ、同時に自分のまえにまわりこんできただれかに抱き竦められた。直後に響いた、ガツン、という鈍い物音。その衝撃が、自分に覆いかぶさる人物の躰越しに伝わるとともに、真上から体重をかけられた。  不安定な姿勢のままのしかかられて、莉音は支えることもできずにともに地面に転がった。あわてて上体を起こせば、スーツ姿の男が自分の腰に腕をまわしたまま昏倒していた。ふと見れば、直前に自分に襲いかかろうとしていた見知らぬ相手が、なおも仁王立ちになっている。ただでさえ薄暗い中、街灯の明かりが逆光になってその姿を正確にとらえることができない。だがその姿は、莉音の目にとてつもなく大きく映った。  いからせた肩が大きく上下し、その口から荒い息が漏れ出ている。背後からも荒々しい足音が近づいてきて、先程の男たちがこちらに向かってきたのだとわかった。  躰が竦んで身動きができず、声を発することさえかなわない。  手足の指先が氷のように急速に冷えて、冷たい汗が噴き出してきた。胸が破れそうなほどの勢いで、心臓が激しく拍動を繰り返す。  自分になにが起ころうとしているのか把握できないまま、莉音は自分に折り重なるようにして倒れ伏す相手に身を寄せた。頭が真っ白で、なにをどうしたらいいのかわからなかった。と、次の瞬間。  けたたましい悲鳴が辺りに響きわたった。  ビクッと身を竦ませた莉音の視界の向こうにあらたな人影が映る。 「だれか! だれか来てっ! 人が襲われてるっ」  通行人らしき女の騒ぎ声とともに、やはり近くを通りかかったらしいだれかの足音が複数近づいてくる。近隣の家々からも、人が出てくる気配が感じられた。  チッと舌打ちした男たちは、途端に身を翻した。莉音はその場に座りこんだまま、茫然と走り去る男たちの背中を見送った。

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