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第1章 第1話(1)

「あの、どうぞ上がってください。狭いですけど」  振り返った莉音は、そう言って玄関口に佇む男をうながした。  スラリとした長身のその人物は、昨夜、暴漢に襲われた莉音を庇ってくれた相手であり、直前に三人の黒服の男たちと揉めていた男でもあった。  あの直後、集まってきた人たちのだれかが呼んだ救急車が到着し、男は病院に搬送されることとなった。だが、その男の付き添いとして、なぜか莉音までが病院に同行することとなった。男が莉音の腰にがっちりと腕をまわしていたことで、莉音もまた、暴行被害の関係者と見做(みな)されたためだった。  男が治療を受けるあいだ、到着した警察にはとりあえず莉音が対応して事情を説明した。そして治療後、目を覚ました男にあらためて詳細を確認しようとしたところ、そこではじめて大きな問題が発生していたことが発覚した。驚いたことに、男はなにも憶えていなかったのだ。事の経緯はもちろんのこと、自分の名前さえも。  鈍器で後頭部を強く殴られていたため、CTやMRIなどの検査を受けて傷口を数針縫ったが、大きな異常は認められないというのが医師の診断だった。健忘も、おそらくは頭部外傷による一時的なものだろうとの見立てであったが、こうなった原因の一端が自分にもあると思うと、莉音はどうしたらいいのかわからなかった。  念のため、ひと晩入院して様子を見たが、その後も症状が悪化するようなことはなかったため、そのまま退院となった。しかし、無事退院となったからといって、それですべてがまるくおさまるはずもない。男はひと晩明けてからも、やはり自分の素性についてなにひとつ思い出せないままだった。  着ていたスーツは非常に仕立てがよく、高価そうだった。年齢はおそらく、三十前後といったところだろうか。その身なりや言動からも、それなりの地位のある人物なのだろうと推察された。有名企業の社員か役員か、あるいは弁護士や医者といった類いの職種か。そう思わせるに充分な品位と風格を漂わせていた。そしてもうひとつ。 「あ、靴は脱いでください」  咄嗟に言ってしまってから、莉音はあわてて口を噤んだ。その声に、変わらず玄関口に佇んだままだった男がじっと視線を向けてきた。  救急車で搬送されるときから、彫りの深い顔立ちは異国の雰囲気を滲ませていて、おそらく日本人ではないのだろうと思われた。そしてその認識は、病院で手当てを受けた後、警察を交えてあらためて対面したときに確信へと変わった。  男の瞳は、あざやかなサファイア・ブルーをしていた。 「あの、ごめんなさい。つい……」  気まずくなって謝罪の言葉を口にすると、自分を見つめていた青い瞳がふっとなごんでやわらかくなった。 「いや。お邪魔する」  低く、耳に心地よく響く声が穏やかに言葉を紡いだ。そのイントネーションに外国語訛りはいっさいなく、昨日も医者の説明や事情聴取にもごく普通に受け答えていた。いかにもエリート然とした佇まい同様、語学にも堪能であるらしかった。それとも、日本で生まれ育っているということもあるのだろうか。立ち居振る舞いが洗練されているので、なんとなくそうではないような気がした。  男が靴を脱いで上がってくる。狭い2DK。玄関を入ってすぐが台所で、左手がトイレと浴室。奥に六畳と四畳半という間取りで、莉音はとりあえず、台所にある食卓の椅子を男に勧めた。 「あの、あらためまして佐倉莉音です。いろいろ大変だと思いますけど、僕もできるだけのことは協力しますので、気兼ねなくゆっくりしていってください」  ふたりぶんのコーヒーを淹れて、テーブルを挟んで向かい合って座ったところでそう挨拶をした。  争っている際に路上に落としたのか、あるいは三人組の男たちに盗まれたのか、男は財布や携帯はおろか、身分を証明するものをなにひとつ所持していなかった。やむを得ず仮の連絡先を自分の携帯にしたのだが、警察から今朝入った連絡では、昨夜の現場付近に男の所持品と思われるものはなにも落ちておらず、近隣の交番にもそれらしき落とし物は届けられていないとのことだった。ついでに言えば、いまのところ男が該当しそうな捜索願いも出されていないという。それで、朝一番であらためて病院まで出向き、退院の手続きを済ませて男の身柄を引き取ってきたという次第だった。  警察や病院とは、昨夜のうちにそういうことで話がついていた。莉音と男は知り合い関係ではなく、昨日偶然その場に居合わせただけという間柄であったため、突然の申し出に警察も当事者である男もはじめは面食らっていた。だが、自分を庇って怪我をした相手を、どうしても放っておくことができなかったのだ。

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