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    第1話(2)

 病院から帰宅する際のタクシー代に治療費と入院費の立て替え。正直、現在職探し中で金銭的に余裕のない莉音には痛い出費だったが、身を挺して自分を守ってくれた男は生命の恩人である。その恩人に誠意を尽くすのは、莉音にしてみればごくあたりまえのことで、少しもおかしなことだとは思わなかった。  病院の請求額は当然ながら満額自己負担で、検査費用も含めてとんでもない額となった。それでも事情が事情であるため、身元が判明するまでの仮の保証人という立場で、念のため頭金だけ入れてくれればいいからと融通を利かせてもらえたのはありがたかった。 「本当に、なにからなにまで世話になってしまってすまない」  目の前にいる男が、神妙な面持(おもも)ちで莉音に頭を下げる。驚いた莉音は、あわてて胸のまえで両手を振った。 「や、そんな! 気にしないでください。もとはと言えば僕が原因のようなものなので」 「しかし……」 「いえ、ほんとに大丈夫ですから。困ったときはお互いさまですし、昨夜もお話ししたとおり、僕は独り暮らしなので」  気楽にしてくださいという莉音の言葉に、男はいくぶん困惑したような表情を浮かべた。見ず知らずの赤の他人に、なぜここまでするのか理解できないといった様子だった。 「母の教えなんです」  莉音はそう言ってにっこりした。 「困ったときはお互いさまっていうのが母の口癖で、いつでもどんなときでも、困っている様子の人が目に入ったら手を差し伸べちゃうっていう信条の持ち主で」 「いいお母さんだな」 「そうですね。元気で明るくて前向きで、ちょっとおっちょこちょいなところもあるけど、憎めない人でした」  日本語に精通している男の耳に、その言いまわしはひっかかるものがあったのだろう。ふと周囲を見まわした青い瞳が、冷蔵庫わきの食器棚に飾られている写真立ての上に留まった。そこに、莉音とよく似た面差(おもざ)しの女性の姿があった。  白い肌に栗色の髪、薄茶の瞳。異国の血が半分入った彼女もまた、純粋な日本人とは異なる外観をしていた。  昨夜、莉音が関係者として救急車に同乗させられたのも、母譲りの見た目が影響していたのかもしれない。  目線を追いかけた莉音が、表情をなごませる。 「あれが噂の母です」  男はそうか、と頷いた。 「とても美しい人だ。笑顔にも好感が持てる」 「本人が聞いたら喜びます。あなたみたいな格好いい人から言われたらとくに」  莉音はそう言って笑った。  写真が飾られていること。独り暮らしといいながら、台所の様子が少しもそれらしくないこと。  もっときちんとした写真は、莉音が私室として使っている隣の六畳間に飾られている。だが、それでも勘のいい人間なら、すぐにそれと察せられるだろう条件がそろっていた。事実、それらの状況から語られない部分を推察したのだろう。男はそれ以上なにも言わず、押し黙った。  莉音の母は、つい先日までこのアパートで一緒に暮らしていた。母ひとり子ひとりの家族構成で、けれども、いつも賑やかな母のおかげで少しも寂しいと感じることのない生活を送っていた。その母は、いまはもういない。あまりにも突然のことで、心の整理がつかないまま今日まで来てしまった。  母のことを話題にしたことで、その事実をあらためて突きつけられたような気がして莉音は口許を引き結んだ。 「あの、そういえばお腹空きません?」  唐突に沈んだ気分に支配されそうになって、あわてて話題を変える。滞在期間が長くなれば、いずれまた事情を話すときが来るかもしれないが、ついさっきこの家に来たばかりの相手に話すような内容ではない。なにより彼自身、大変な問題を抱えている身なのだ。  莉音は立ち上がった。

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