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第1話(3)
「うっかりしちゃってすみません。もうお昼過ぎちゃいましたね。病院の手続き、思ったより時間かかったから」
言いながら、冷蔵庫に向かう。
「簡単なものでよければ、僕作りますね。好き嫌いとかアレルギーとか、なにかあります?」
訊いたあとで、あ、と口許に手をやった。
「ご、ごめんなさい。わからない、ですよね?」
「いや」
莉音の言葉に、男はすかさずかぶりを振った。
「たぶん大丈夫だ。そういうのはないと思う」
その返答にホッとした。
「あ、それならよかったです。なにか希望はありますか? 洋食がいいとか、和食ならこんなのが食べてみたいとか」
「とくにはなにも。君にお任せする」
「わかりました。じゃあ、あるもので適当に」
冷蔵庫を開けて、莉音は中を覗きこんだ。
買い置きしてある材料をざっと見る。いろいろなことが重なって最近はあまり食欲もなく、以前ほどに充実した食材は備蓄していない。そもそも、ひとりぶんではたかがしれているので、たいした材料はそろえていなかった。それでも気軽に外食したり、弁当や惣菜を頻繁に買う余裕はないので自炊を心がけていた。というよりも、莉音はもともと料理の道に進もうと思っていた。将来の希望をそこに据えたのは、女手ひとつで育ててくれた母の影響があった。それもいまは、心許ない状態になりつつあるけれど……。
メニューを決めた莉音は、必要な食材を取り出して調理にかかった。背中を向けて調理する姿を、男がじっと見ている気配がある。
「あの、退屈、ですよね? 隣の部屋、テレビあるのでつけましょうか? できたら声かけますんで、なんだったら、そっちの部屋でゆっくりしててもらって――」
「いや、ここでいい」
居心地の悪さをおぼえて咄嗟に提案するも、あっさり却下されてそれ以上なにも言えなくなった。
しかたなく意識を調理に向ける。やや緊張しつつも水を張った鍋に火をかけ、まな板の上でタマネギを切りはじめた。
「君は学生か?」
「あ、はい」
唐突に背後から問われ、莉音は反射的に返事をしていた。答えてから、そうではなかったことに気づいてあわてて訂正を入れる。
「あ、じゃなくて、違います。その、いまは求職中です」
「求職中……」
考えこむように言われて、『求職』という日本語は男の耳に馴染まなかっただろうかと思い至った。
「あ、え~とですね、求職っていうのは、いま働き口を探し――」
「そうか。それは重ね重ね申し訳ないことをした」
言われて、思わず振り返った。
「大変な時期に余計な厄介ごとまで背負わせることになってしまった。本当に申し訳ない」
「や、そんな」
真摯な眼差しを向けられて、莉音のほうがあわてた。
「大変とかそういうのは全然ないんで、大丈夫です。ただ、仕事先を見つけるのに出かけたりはすると思うんですけど、そこだけ承知しておいてもらえたらいいかなって」
「わかった」
実際のところ、ここしばらく職探しのため出歩くことが多かったが、思うように成果は上がらなかった。まもなく新年度を迎えるという中途半端な時期であるうえ、ついこのあいだまでは普通の学生だった。それが急遽、学校を退学し、就職口をといってもそう簡単には見つからない。
えり好みをしているつもりはなかったが、通っていたのも調理の専門学校で、これから二年に進級するというところで中退。これといって資格も持たず、キャリアもないとあっては、新卒の学生ですら就職難の昨今、書類審査の段階で簡単に振り落とされ、面接にすらなかなかたどり着けないのが現状だった。なんとか面接まで漕ぎ着けたとしても、世間慣れしておらず、社会に出た経験もないうえに天涯孤独の身の上とあってか、色よい返事はことごとくもらえなかった。
この先のことを考えると、バイトを掛け持ちしながら生活費をまかなうというわけにもいかない。生計を立てるための見通しが立たず、途方に暮れる日々だった。
昨日もちょうど、ハローワークを介して紹介された先で面接を受けてきたのだが、欲しいのは即戦力とのことで、その場で不採用が確定した。都内に複数の店舗を展開するイタリアンの店で、どんな雑用でもかまわないからと熱意を伝えたが、専門学校一年で中退ではどうにもならないとのことだった。
飲食関係の業種にかぎらず、一般の企業でも反応は似たり寄ったりで、なにより、次の採用は来年度に向けてということになる。そこまで待っている余裕が、いまの莉音にはなかった。
もうどれだけ履歴書を書いたか憶えていない。さすがに心身ともに疲弊しきっていたところだったので、気持ちを切り替える意味でも、今日はむしろ、ちょうどいい休養日といったところだった。
「あの、お口に合うかわかりませんけど」
二〇分ほどの調理時間で莉音が用意したのは、親子丼とお吸い物のふた品だった。
いずれも作り置きしておいただし汁を使って、手早く作った即席の簡単メニュー。お吸い物は、ワカメと焼麩、かまぼこを入れた。
「三つ葉があれば完璧だったんですけどね」
言いながら、男のまえに丼と椀を置いた。
「お箸、使えます? それともスプーンとかのほうがいいですか?」
「いや、箸で大丈夫」
男の返事を聞いて、割り箸を添えた。
向かい合って座り、いただきます、と手を合わせると、男もそれに倣って手を合わせ、いただきますと言う。慣れた様子で割り箸を割って最初に汁物に口をつけると、かすかに目を瞠って動きを止めた。
「……美味しく、なかったですか?」
思わず不安になって尋ねると、男はすかさず、いやと首を振った。
「とても美味しい」
その言葉を聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。
莉音が見守るまえで、男は丼にも箸をつける。長い指先を器用に操る、きれいな箸使いだった。
「こちらも、上品な味付けでとても美味しい。ありがとう」
率直な褒め言葉に、莉音は口許をほころばせた。
「お口に合ってよかったです。それに、お礼を言いたいのは僕のほうかも」
不思議そうに自分を見る相手に、莉音は笑いかけた。
「食事って、やっぱりだれかと一緒に食べるほうが美味しいですよね。ひとりだと、味気ないから。今日はひさしぶりに、食べたものの味がわかります」
しばし莉音を見つめていたサファイア・ブルーの双眼は、やがて静かに伏せられた。
「そうか」
たったそれだけの返事だったが、心のこもったひと言に感じられた。
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