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    第3話

 買いこんだ食料品を抱えて大急ぎで帰宅すると、自宅アパート前にはすでに、警察車両と思われる見慣れないセダンが一台駐められていた。二階の開放廊下を見上げれば、やはり自宅玄関のドアが開いて複数の人影が見える。莉音が階段を上がって行くと、玄関から廊下へはみ出すように立っていたスーツの男性がすぐに気づいて、中にいるだれかに声をかけた。 「ああ、佐倉さん。先程はどうも」  玄関から廊下へ出て来たのは、いましがた電話で話した山岡だった。  最初に莉音に気づいた刑事らしい男性がドアを押さえていると、山岡につづいてスーツ姿の男性がもうひとりおもてに出てきた。 「すみません、遅くなりました」 「いえいえ、こちらこそ急で申し訳なかったです。おかげさまで、いまちょうどご本人とも確認が取れまして」  言いながら、山岡が傍らの人物に目を向ける。(ふち)なしの眼鏡をかけた、二十代後半くらいの知的な雰囲気の日本人男性だった。 「このたびは弊社の社長がいろいろとお世話になりましたようで、本当にありがとうございました」 「社長さん、ですか?」  戸惑う莉音に、男性は名刺を差し出した。 「失礼いたしました。わたくし、ヴィンセント・インターナショナルという会社で社長秘書をしております、早瀬(はやせ)宗一郎(そういちろう)と申します」 「あ、はい。佐倉です」 「佐倉さん、本当に助かりました。あなたが身柄を預かってくださっていた男性は弊社社長のアルフレッド・ヴィンセントという者でして、昨夜から連絡がつかなくて捜しまわっていたところでした」 「そうですか。無事見つかってよかったです」 「はい、これもすべて佐倉さんのおかげです。なんと御礼を申し上げたらいいか」 「あ、いいえ。僕はなにも。っていうか、むしろ襲われそうになった僕を庇ってくださったせいなので、かえって申し訳なかったです」 「いえいえ、とんでもない。どうやら最初によからぬ連中と揉めていたのはヴィンセントのほうだったようですから」 「早瀬」  部屋の奥から聞きおぼえのある声が聞こえてきて、視線を向けるとくだんの人物が玄関口から現れた。長身という理由からだけでなく、こうして複数の人たちの中にいると、自然と目が引き寄せられる存在であることがよくわかる。ひときわ整った容姿であることももちろんだが、纏っている風格そのものが、あきらかに一般の人間とは異なっていた。 「通路で立ち話をしていると迷惑になる」  よく響く低音で男が静かに言うと、警察官ふたりが緊張したように背筋を伸ばすのがわかった。その一方で、早瀬と名乗った男性秘書は、慣れた様子でゆったりとかまえている。 「あ~、たしかにそうですね。他の住人の方にもなにごとかと思われちゃいますよね」  言って、莉音に向きなおった。 「佐倉さん、ご都合もきちんと確認せず、突然押しかけてしまって申し訳ありませんでした。お騒がせしてしまいまして。面倒なおじさんの身柄はこちらで引き取りますので」 「早瀬、聞こえてるぞ」  最後の部分は声をひそめて告げられたが、すかさずその後方から声が飛んできた。  状況がいまいち呑みこめないまま、莉音は早瀬とその背後の人物とを見比べた。 「あの、記憶……」 「ああ、おかげさまでつい先程、思い出しました」  本人にかわってやはり早瀬が受け応える。 「最初、私の顔を見ても『だれだ、こいつ』って感じだったんですけどね。話をするうちにだんだんと思い出したようです。ですので、もう問題ないかと」 「あ、そうなんですね」  説明を聞いて、莉音は胸を撫で下ろした。自分のせいで今後も生活に支障をきたすようだったらと気になっていたのだ。  早瀬が心得たようにわきにどけたので、莉音はあらためて男に向きなおった。 「あの、よかったです。でも、まだ怪我の状態も安心できないと思うので、くれぐれも大事になさってください」 「ああ。いろいろ世話になってすまなかった。ありがとう」 「いえ、僕のほうこそ助けていただいてありがとうございました」  莉音の言葉に、青い瞳がわずかになごむ。 「本当にご面倒おかけしました。今日はこのあと、警察署のほうで今回の経緯についてくわしく説明する必要があるそうなのでこのままお(いとま)しますが、お礼はまた後日あらためて」  横合いから早瀬に言われて、莉音はあわててかぶりを振った。 「いえ、そんな。お礼とかしていただくようなことはなにもしてませんから。大丈夫です」 「とんでもない。そんなわけにはいきません。病院の手続きの件なんかもありますから」  言われて、そういえばそうだったと思い出した。 「次はきちんと佐倉さんのご都合に合わせてお邪魔したいと思いますので、ご連絡先を教えていただいてもいいですか?」  早瀬の申し出にしたがって、莉音はその場で携帯を取り出すと互いの連絡先を交換し合った。 「それじゃ、あわただしくて申し訳ないんですが、今日のところはこの辺で」  山岡のほうからも後日あらためて連絡をすると言われ、莉音は去っていく一行を見送った。 「親子丼、美味しかった」  立ち去り際、耳打ちするように礼を言われて莉音は少し驚いた。  男を中心に、訪ねてきた一行がゾロゾロと階段を降りていく。 「いろいろ、買いすぎちゃったなぁ」  車が敷地内を出て行くのを見送ってから、莉音は手に()げていたスーパーの袋を見下ろしてポツリと呟いた。それでも、生命の恩人の記憶が無事に戻って、本当によかったと口許にかすかな笑みを浮かべた。

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