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第2章 (1)

 目の前にひろがる光景に圧倒され、莉音は茫然と立ち竦んだ。 「佐倉さん、どうぞ入ってください」  先に奥に入っていった人物、ヴィンセント・インターナショナルの社長秘書である早瀬にうながされて、莉音はおずおずと靴を脱いだ。 「あの、お邪魔します……」  専用エレベーターを降りてすぐ目の前にひろがる、白い大理石が敷きつめられた豪奢な玄関。前方に伸びる幅広の長い廊下。その両サイドにはいくつものドアがあって、いちばん奥の開放されたガラス張りのドアの向こうには、一段とひろびろとした空間と絶景がひろがっていた。  莉音はふたたび、ガラス張りのドアの入り口で立ち竦む。 「大丈夫ですか? どうぞこちらへ」  すでに中で待機していた早瀬に奥の窓ぎわに置かれているソファーを勧められ、こくりと息を呑んだ。 「あ、の……僕……」 「そんなに(かしこ)まらなくても大丈夫ですよ」  緊張のあまり言葉を詰まらせる莉音に、早瀬はにこやかな笑みを向けた。  都心一等地のタワーマンション最上階、まるまるワンフロアー所有。いわゆるペントハウスという仕様である。  莉音はいま、アルフレッド・ヴィンセントの自宅を訪れていた。  ヴィンセントの身元が判明して記憶を取り戻した、翌日のことである。  早瀬がじっと待っているので、莉音は意を決して「失礼します」と室内に足を踏み入れた。ひろすぎていったい何畳あるのか想像もつかないLDK。入った右手奥がキッチンで、バーカウンターまで設置されている。部屋全体が大きな吹き抜けになっていて、入り口左手には階段があり、階上にも、おそらくロフトなどではない、普通の住居スペースとしての部屋や廊下が設けられているようだった。  早瀬が勧める応接スペースは、LDKの奥。キッチンスペースの向こう側に設けられていた。  ひろびろとした室内の前面部分は巨大なパノラマウィンドウで、地上四十階から見晴るかす眺望は、まさに絶景と言えた。 「ひょっとして、高所恐怖症です?」  早瀬に訊かれて、莉音はあわててかぶりを振った。 「あ、違います。ごめんなさい。あんまりすごい景色だったので」 「夜はもっと綺麗ですよ」  早瀬はそう言ってにっこりとした。 「佐倉さん、コーヒーでいいですか?」 「あ、いえ。どうぞおかまいなく」 「大丈夫ですよ。ヴィンセントからはきちんとおもてなしするよう言いつかってますので」  言いながら、莉音が勧められた革張りのソファーに遠慮がちに腰を下ろすのを見届けて、キッチンへと移動していった。 「すみませんね。肝腎のヴィンセント本人が不在で。午後からどうしても抜けられない会議があったものですから」 「いえ、そんな、とんでもない。あの、社長さん、その後、お身体の具合は……。もうお仕事に復帰されて、大丈夫なんですか?」 「おかげさまでピンピンしてます。もともと丈夫な人なので」 「でも、昨日の今日で、もうお仕事なさってるんですね」 「そうなんです。我々日本人以上に仕事の虫ですから。止めなければ、昨日警察署を出たその足で、そのまま会社に行くところでした」  早瀬の言葉に、莉音は目をまるくした。 「とりあえず昨日は無理やり休ませて、今日も朝一で診察を受けさせてから出社を許可したんですけどね」 「そ、そうなんですね……」  まるで早瀬のほうが雇い主のような口ぶりである。だが、これだけきちんと補佐していてなお、突然連絡がつかなくなったときにはさぞ心配したことだろう。 「本当に突然のお願いで申し訳ありませんね」  専用のエスプレッソマシーンで淹れたカフェラテを莉音のまえに置きながら、早瀬は苦笑交じりに言った。  後日またあらためてということで連絡先を交換したが、早瀬は昨日の夜のうちに連絡をよこして莉音の自宅アパートを訪ねてきた。その際に立て替えた医療費とタクシー代に加え、謝礼まで差し出されたのだが、莉音の側では受け取る謂われはない。自分を庇って怪我をした経緯を考えると、むしろ治療費を請求されてもおかしくはない状況である。気持ちだけで充分だと固辞した。そんな莉音の反応を見た早瀬は、きっとそういう流れになるだろうと言われてきたと言って笑った。 「あなたはそういうお人柄だからとヴィンセントも言っておりましたので」  そう告げたあとで、来訪した本来の理由であるらしい用件を持ち出してきた。すなわち、もしまだ就職先が決まっていないようであれば、ヴィンセント邸で家政婦がわりを務めてもらえないだろうか、と。

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