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「あの、本当に僕なんかでいいんでしょうか?」  向かい合って座った早瀬に、莉音はおずおずと尋ねた。 「そういうことを専門にしている業者さんもたくさんあると思いますし、僕自身、ついこのあいだまでただの学生で、そういった方面の知識とか全然ないんですけど」 「それはまったくかまいません。あなたのご都合のつく範囲で掃除とか食事の用意をしていただければそれで充分なので」 「はあ……」 「就職活動もつづけていただいてかまわないそうです。正式な採用が決まるまでのあいだの、お小遣い稼ぎくらいの感覚でいてもらってかまわないと、ヴィンセントもそう申しておりました」  そう言われても、なんだか申し訳ない気持ちになる。家事代行の専門業者には遠く及ばない、ただのど素人なのだ。 「ようは、あなたのことが気に入ったので、あなたにお任せしたいと、そういうことのようですよ?」  ああ見えて、なかなか難しい人なんです、と早瀬は嘆くように言った。 「私は秘書という立場上、こうして自宅の鍵を預けられることもありますけど、それもごく(まれ)なことですから。急遽海外に飛ぶことが決まって必要な荷物を取りに来るとか、その程度のことで、それも過去に数回といったところでしょうか。自分の領域に他人が入ることを滅多なことでは許容しない、なかなか気むずかし屋な人なので」 「え、でも……」  ならばなおのこと、自分は相応(ふさわ)しくないのではないかと戸惑った。 「ですからある意味、今回のことは私も驚きました」  まあ、それはそうだろうと莉音も深く同意する。 「ただ、あの方の人を見る目はたしかですからね」  頷きかけて、莉音はその評価の中に自分も含まれることに気づき、思わず動きを止めた。そんな莉音に向かって、早瀬は人好きのする笑みを浮かべた。 「まあ、そんなわけなので、その彼がぜひにと望む方なら間違いないだろうと」 「そ、そうなんでしょうか?」  あまりにも自信満々に言われて、莉音のほうが逆に訊き返してしまった。一瞬驚いた顔をした早瀬が直後に笑い出す。眼鏡の奥の眼差しが、ほっこりとあたたかかった。 「そんなふうに過小評価されることもないと思いますよ。先程も申し上げたとおり、ヴィンセントはそういった方面ではなかなかの目利きですから、自信を持って褒められておいてください」 「あの、でもやっぱり、どうしてなのかよくわからなくて……」  自分はたいしたことはしていないし、おなじ状況に置かれれば、おそらく自分でなくともおなじようにする人間はそれなりにいると思う。むしろ自分より遙かに立派なのは、生命の危険を顧みず、見ず知らずの人間を庇った彼のほうなのではないだろうか。 「難しく考えなくて大丈夫ですよ。こういうのは基本、相性の問題ですから」 「はあ……」  その相性がいいかどうかを判定できるほど、莉音は相手のことがよくわかっていないというのが本当のところだった。 「まあ、あとはあれですかね。胃袋を掴まれちゃったっていうのもあるみたいです」 「はあ……って、えっ!? 胃袋っ?」  相槌を打ちかけて、莉音はギョッとした。 「胃袋って、まさかそんな……」 『親子丼、美味しかった』  帰りぎわに耳打ちされたセリフが不意に甦って我知らず赤くなる。あり合わせの食材でパパッと作って出しただけのものに、そこまでの値打ちがあるとも思えない。どう考えても社交辞令で間違いないと思うのだが、あらためてこんなふうに言われてしまうと気恥ずかしさがこみあげてきた。なにより、胃袋を掴むというのは、女性が意中の男性を射止める際に使われる手法なのでは、とますますいたたまれない気持ちになった。

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