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    第1話(2)

「ところで莉音くん、今日の夜はなにか予定が入っていたりしますか?」 「え? いいえ。とくにはなにもないです」 「そうですか。じゃあ申し訳ないんですが、今夜はそのまま予定を空けておいていただけますか? ご自宅へは、今日は別の者がお送りしますので」  言われて、莉音は膝の上に載せていた手をギュッと握りしめた。 「あの、早瀬さん」  思いきって声をかけると、早瀬はすでに、莉音がなにを言おうとしているのか察したように薄く笑った。 「ぼ、僕、ちゃんと自分で通えますから。なんか毎日、こんなにしていただくのは申し訳ないです」  莉音の言葉に、早瀬は「ですよねぇ」と至極もっとも言わんばかりに頷いた。 「気持ちはよくわかります。慎ましやかな莉音くんの性格だと、ふんぞり返って受け容れる、というのは難しいでしょう。わかってはいるんですけどね。うちの社長、すっごい過保護なんですよ」 「で、ですけど、社員さんみんな、僕みたいな待遇ってわけじゃないですよね?」 「まあ、それはもちろん。社員はあくまで社員なので。でも莉音くんは社員じゃなくて、ヴィンセントが個人で雇ってますからね。待遇も異なって当然でしょう」 「で、でもでも、僕、社員さんたちよりずっと好待遇な気がします」  ヴィンセント邸を訪れているのは週五日。平日の昼の時間帯なのだが、電車で通うつもりでいたところ、なぜか初日からずっと社用車で送り迎えされている。送迎は早瀬か社長付きの運転手で、車もおそらくは社長専用であろうと思われる高級車。分不相応すぎる待遇に後込(しりご)みして、いくら電車で通うと辞退しても受け容れてもらえない。申し訳なさすぎて身の置きどころがないくらいだった。  自分が住んでいる杉並区からヴィンセント邸のある港区まで、普通に電車で通える。個人で雇っていると言いながら、社長秘書や社長専属の運転手に手間をかけさせるのは忍びなかった。 「気持ちはほんと、わかるんですけどね」  早瀬はそう言って苦笑を漏らした。 「莉音くんみたいに奥ゆかしい性格だと、戸惑っちゃいますよね」 「いえ、全然。奥ゆかしくなんてないです」  ただたんに貧乏性が染みついているだけなのではないかと思うと気恥ずかしくなってしまった。 「ただ、社長もちょっと過剰なところもありますけど、本気で心配している部分もあるんですよ」 「……え? 心配?」 「さっき過保護って言いましたけど、自分が一度、襲われてるでしょう? それも莉音くんの家の近くで」 「あ……」  言われてはじめて、この過剰待遇にはそういう意味もあったのかと驚いた。 「物騒な世の中ですからね。自分みたいに体格がよくて、それなりに鍛えてる人間でさえあんな目に遭ったのだから、莉音くんみたいに可愛らしい子ならば、なおのこと危ないって案じてるんです」 「え、いえ、あの……」  か、可愛らしい……?  自分にあまりにそぐわない言葉で形容されて、どう返答していいのか反応に困った。  たしかに彼より小柄で貧弱であることは認めるが、今年成人を迎えようという、ごく一般的な青年期の男である。女性ならばともかく、そこまで心配してもらうようなことではないのにと当惑は深まるばかりだった。 「莉音くんみたいな整った顔立ちの子は、女の子でもそうそういないですからね」  早瀬は軽やかな口調で言った。 「せっかくハウスキーパーとして有能な人材を雇い入れたのに、なにかあったら大変だ、と、そう思っての送迎みたいですよ」 「でも、これはさすがに……。遅い時間に帰るわけでもないですし、そもそも、いまだってみんな、普通に出勤とか通学とか買い物とかで出歩いてる時間帯じゃないですか」 「まあそうですね」  平日の午前九時は、そこまで過剰に気遣われるような物騒な時間ではない。 「ただ、我々も一応これも仕事の一環なので、どうしても莉音くんのほうで抵抗があるようであれば、直接社長に掛け合ってみてください。今日は家にいますから」 「え?」  早瀬の言葉に驚いた。ヴィンセント邸に通うようになって今日でちょうど二週間になるが、これまで雇い主であるヴィンセント当人と顔を合わせたことがなかったからだ。 「ここしばらく、休日も返上で出社することも多かったですからね。今日は家で少しのんびりすることにしたそうです。といっても、在宅で仕事するっていうだけのことなんですけど」 「あ、じゃあ僕、あまりお邪魔にならないように気をつけます。お昼は家で召し上がりますよね。お茶とかも、お持ちしてもいいのかな……」 「会社でも、頃合いを見計らってお出ししてるから、問題ないと思いますよ」 「わかりました」  頷いたあとで、あれ?と疑問に思った。 「お仕事は家でされるけれども、夜には会食のご予定があって出かけられるってことですか? あ、それともプライベートでってことでしょうか? どちらにしろ、今夜は外で食事されるってことでいいんですよね?」 「そうですね。スケジュールについては、直接ヴィンセントに確認してみてください」  車はちょうど、目的地であるマンションに到着したので、早瀬との会話はそこで終了となった。

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