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第3章 第1話(1)

 ヴィンセント邸での仕事は、翌日からスタートした。  前日に早瀬を通じて合い鍵を渡されているので、午前中に出向いてゴミ出しや室内の清掃をし、必要な食材の買い出しをして夕食と翌日の朝食の支度をする。マンションの中にはクリーニング店もあるので、スーツやワイシャツなどの衣類は、そちらのサービスを利用することができた。  とにかくワンフロアーまるまる所有しているので、トイレや浴室、シャワールームなども複数配されており、部屋数もそれなりに多いが、掃除に関しては毎日やれる範囲でこなせばいいと莉音の裁量に任せてくれているのがありがたかった。  秘書の早瀬からもあらかじめ聞いていたとおり、やはり多忙を極める身のようで、この家の住人である雇い主のヴィンセントとはまったく顔を合わせていない状態がつづいている。そもそも莉音は、掃除やさまざまな雑用をこなしたあとは食事の支度を済ませるとそこで一日の仕事が終了となる。そのため、おそらく帰宅時間が遅いであろう部屋の主とは、顔を合わせる機会もなかった。それはべつにかまわないのだが、会食や打ち合わせの延長等で食事を外で済ませることも多いため、夕食を用意しないまま業務終了となることもたびたびあった。  日当は結局、最初に提示された金額で決定してしまっているだけに、業務内容がただの掃除や洗濯といった雑用だけというのは、なんだかとても申し訳ない気がした。なにより、いちばん問題となったのが―― 「本当によくやってくれていると、ヴィンセントも感謝しておりました」  社用車のハンドルを握りながら、早瀬がルームミラー越しに莉音に視線を投げかけてきた。後部座席に居心地悪くおさまっていた莉音は、とんでもないとかぶりを振った。 「普通にできる範囲のことをしているだけなので、たいしたことは全然……」 「いえいえ、莉音くんはとてもよく気がまわると感心してましたよ」  早瀬はやはり、鏡越しににっこりとした。『莉音くん』――すっかり打ち解けて気心が知れるようになった現在、ヴィンセント・インターナショナルの敏腕秘書は親しみを込めてそう呼ぶようになっていた。 「部屋の主が日頃どんなふうに生活しているのかをきちんと見定めたうえで、そのリズムに支障が出ないよう配慮した室内の整えかたをしてくれていると」 「あ、ありがとうございます。そう言っていただけると僕も嬉しいです」 「食事もいつも、とても美味しいそうです」 「そうですか。よかった」  メニューは任されているので、いつもとても迷う。作り置きしてもあまり鮮度や味が落ちないもので、なおかつ栄養のバランスがとれた献立になるよう、莉音なりに充分気を配っているつもりだった。 「あの、でも最初に伺っていたとおり、外で食事されることが多いので、きちんと役目をこなせていないようで少し心苦しいです」  莉音が言うと、早瀬は途端に、「あ~、それは困った……」と呟いた。 「その辺はこちらの都合なので莉音くんが気にする必要はまったくないんですけどね。そうするとちょっと、今日の予定が言いづらいな」 「え? あ、すみません。あくまで僕自身、もっとレパートリーを増やして、いろいろ工夫しながら社長さんに喜んでいただけるようになりたいなと思っただけなので。やっぱり今日も、夜は外で食事されるご予定ですか?」 「まあ、そうですね。一応そうなってます」 「わかりました。じゃあ次、家で召し上がるときには、また美味しいって満足していただけるように頑張ります」 「そうですね、社長もいつも楽しみにしてますので。よろしくお願いします」  早瀬はミラー越しに目もとをなごませた。

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