37 / 65

    第2話(3)

「ねえ、莉音くん、私の目には、君もとてもつらそうに見えるのだけれど、気のせいですかね?」  しばらく無言で車を走らせていた早瀬は、やがてふたたび様子を窺うように話しかけてきた。それは、できればこのまま触れずにいてほしかった話題だった。 「少なくともヴィンセントといたときの君は、家に不法侵入者が現れたり、見ず知らずの男に攫われそうになったりといろいろ大変な思いもしたけど、それでも幸せそうに見えました。ヴィンセントの一方的な片想いではなく、互いに想いが通じ合っているように見えていたんですけどね。それは私の勘違いですか?」  莉音は答えることができずに俯いた。 「以前、財力があって容姿にも恵まれているヴィンセントは、相手に不自由しない人だと言いましたけど、彼が自分から望んで求めた人は、私が知るかぎりだれもいません。莉音くんだけです」 「そんなことは……」 「自分に自信が持てませんか? でも事実ですよ? 莉音くんはいまもまだ、あのマンションの合い鍵を持っているでしょう? 仕事だからだと思うかもしれませんが、彼は簡単に自宅の鍵を他人に預けるような人ではありません。彼にもっとも近しい立場にある私でさえ、やむを得ない事情で過去に数度預けられたことがあったけれども、その回数も限られたものだった。以前にそう言ったことがありましたよね? それなのに君は最初から鍵を渡されて、出入りを許された。そしていまも変わらず、その鍵を持ちつづけている」  莉音は無意識のうちに、膝に乗せていたショルダーバッグを自分のほうへ引き寄せた。そのポケットには、彼から預かった鍵が入っていた。  ずっと、返さなければと思っていた。けれど、直接会って返す勇気が持てずにいた。  書留で送り返そうか。それとも早瀬に連絡を取って渡してもらうように頼もうか。悩みながらも、行動に移すことができないまま今日まで来てしまった。 「魅力的な人ですからね。彼に言い寄る人間は、男でも女でもあとを絶ちません。男たちは主に、彼の所有する莫大な資金を目当てに援助を求めて近づいてきますし、女たちは、あわよくば彼のパートナーの座を狙って近づいてくる。なんの打算も損得感情もなく、彼が何者かも知らない状態で手を差し伸べたのは君だけです」 「でもそれは……」 「彼にとって君は、特別な存在なんです。彼の心が、信じられませんか?」  切るような鋭さで問われて、莉音は泣きたくなった。 「そんなこと、ないです。疑ったことなんて、一度もない……」 「それなのに、君は彼の許を去ろうとしてるんですね。なぜなんでしょう。それでいいんですか?」  さらに問いかけられて、莉音は両手を握りしめた。 「いいも悪いもないです。そうしなきゃ、いけないから」 「なぜ?」 「だって僕は――僕みたいな人間は、アルフさんに相応(ふさわ)しくない」  莉音の言葉に一瞬押し黙った早瀬は、やがて小さく息をついた。 「ではお尋ねしますが、彼に相応しい人間というのは具体的にどんな人なんでしょうね。女性であるとか、おなじように豊かな財力と社会的地位を備えているとか、高学歴で知性と教養があるとか、そういうことですか?」  畳みかけるように早瀬は尋ねてくる。脳裡に浮かぶのは美しい金髪の女性。けれども、莉音はなにも言うことができなかった。 「仮にそういった条件をすべてクリアして、彼に釣り合う相手が現れたとして、その相手を少しも好きではなかったり、ともにいて、なんらやすらぎを得られないような場合であっても、相応しい相手でさえあるなら彼は幸せになれるんでしょうかね?」 「それは……。でも……」  容赦のない早瀬の追及に、莉音は追いつめられていく。 「互いに想い合う気持ち以上に、相応しいとか相応しくないとか、ありますか? そこまでつらい思いをして繋がりを断ち切ろうとすることは、正しい判断なんでしょうか?」  けれど、と莉音は思う。思い浮かぶのは、やはりあのときの女性で、その影をどうしても頭から追い払うことができない。  ヴィンセントは、彼の住むおなじ世界で肩を並べて歩くのに相応しい彼女を婚約者として選んでいた。あとから割りこんだのは、あきらかに自分なのだ。  ヴィンセントから彼女の話を聞いたことは一度もなかった。だから彼が、彼女をどう思っているのかは莉音にはわからない。だが彼女は……。 『ドロボッ、ネッコッ』  自分に向けた彼女の眼差しが、ヴィンセントに対する想いをなにより明確に物語っていた。  割りこんで、彼女から彼を奪おうとしたのは間違いなく自分のほうなのだ。その行為が正しくないことだけはわかる。  早瀬の言葉に、莉音は最後までなにも答えることができなかった。

ともだちにシェアしよう!