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    第2話(2)

「莉音くんと出会ってからの社長は、毎日が本当に楽しそうでした。莉音くんがあの人と恋仲になって、マンションに滞在するようになってからはなおのことです。彼の下で働くようになってまもなく七年になりますけど、あんなに嬉しそうにしている社長を見るのははじめてのことでした」  早瀬の言葉に、莉音はなにも返すことができない。 「彼はね、いまの地位を築き上げるまでに相当な苦労と努力を重ねてきた人なんです」  学生時代にとある筋からの支援を受けて起業し、がむしゃらに働きつづけていまの成功を手に入れたという。 「もともと優秀な人ですけれども、それだけでここまでの成功は成し得ないでしょう? 過去の苦労話をひけらかしたり、酒の肴にするような人じゃないですけど、我々のような凡才にははかりしれない、経営者ならではの苦しい思いもそれなりにしてきたと思うんです」  社員とその家族に対する責任を、経営者はたった独りで背負わねばならない。事業が拡大して会社が大きくなればなるほど、その責任は必然的に重くなっていく。 「もちろん、その負担を少しでも軽減するために我々がいるわけですけどね。それでも会社のトップとしてヴィンセントが抱える重圧は、相当なものがあると思うんです。ましてや彼はそれを、まったくのゼロの状態からここまで造り上げてきたんですから」  彼はだれより孤独なのだと早瀬は言った。 「莉音くんには莉音くんの事情があるのでしょうし、第三者である私にとやかく言う権利がないことは充分承知してます。でもね、私は心配なんです」  そう言って、早瀬はふっと吐息を漏らした。 「先程、社長はここのところよく眠れていないようだと言いましたけど、おそらくは食事も、あまり満足に摂っていないんじゃないかと思うんです」  莉音はハッとして顔を上げた。 「さっきも言ったとおり、他人に弱ったところを見せる人じゃありませんからね。つらいとか苦しいとか、ひと言も漏らすことはありませんし、どんなに莉音くんのことを気にかけていても、そういったそぶりを見せることもありません。でもずっと、ひとりでなにかを考えていることが多くなりました」  ふたたび俯く莉音に、早瀬は「ねえ、莉音くん」と呼びかけてきた。 「莉音くんは、社長のことが嫌いですか? もう顔も見たくない? 彼と過ごした時間を、思い出したくもない?」  早瀬の問いかけに、莉音は無言で大きくかぶりを振った。  そんなわけがない。むしろ片時も彼のことが頭から離れなくて、苦しくてたまらないというのに。 「もし嫌じゃなかったら、私のお願いを聞いてくれませんか?」  早瀬は穏やかな口調で切り出した。 「消化によくて、滋養のつくものをなにか作ってあげてほしいんです。今夜、帰ってくる予定だから」  おそらくはそれが、今日、早瀬が莉音を訪ねてきた主な目的なのだろう。  帰宅時間は遅くなるので顔を合わせる心配はないと言われて、莉音の心は揺れた。 「無理にとは言いませんけど、今回の出張も、出発から帰国まで五日の日程で、強行軍と言ってもいいスケジュールなんですよ。万全ではない体調で、そんな過密スケジュールをこなせば身体への負担も大きい。だからとても、心配なんです」  そんなふうに聞かされれば、莉音の心配も募る。会いたくて、けれど、それはもう許されないことなのだとずっと自分に言い聞かせつづけてきて――  膝の上に載せた両手を握りしめた莉音は、ぐっと唇を噛みしめる。さまざまな葛藤が胸に渦巻いて、何度もダメだと自分に言い聞かせ、思いなおそうとしても気持ちが向かうのはただひとつの結論だった。  さんざん迷って、躊躇(ためら)って、そんな自分に嫌気が差すのにどうしても思いとどまることができない。  長い長い葛藤の末、莉音はついに口を開いた。 「……わかりました。僕でいいのなら」 「本当に?」  莉音を顧みた早瀬は、とても助かると言って安堵の表情を浮かべた。そこに、ヴィンセントを案じる心からの思いがあった。  後方を確認しながら早瀬は車線を変える。莉音が出した結論によって、目的地の定まらないドライブは終了となった。  車線の流れに気をとられたふりで、莉音は窓の外へ視線を移す。そうすることで、了承してしまった直後から湧き上がる不安と後悔を、できるだけ考えないようにした。

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