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    第2話(1)

 重い足取りで駅の改札を出た莉音は、その足を止めた。目の前に見覚えのある車が停まっていて、その傍らに、さらに見知った人物が佇んでいた。 「……早瀬さん」 「こんにちは、莉音くん。おひさしぶりですね」  にこやかに挨拶されて、莉音は表情を硬張(こわば)らせた。 「あ、こんにちは……。ご無沙汰してます」  言いながら、無意識のうちに視線が後部座席の窓を見つめてしまう。そんな莉音を見て、早瀬がくすりと笑った。 「心配しなくても大丈夫ですよ。社長は乗ってません。ここへは、私ひとりで来ました」  それとも、がっかりさせちゃいましたかね、とからかうように言われて、頬が熱くなった。 「すみません、急に。こんなところまで押しかけてしまって。お疲れですよね、ご自宅までお送りしましょうか?」  訊かれて、莉音は無言でかぶりを振った。生活費を稼ぐため、深夜のカラオケ店でバイトをした帰りだった。  どうしてこんなところに、と思う反面、ヴィンセントの秘書を務める有能な彼ならば、この程度のことを調べあげるなど造作もなかったのだろうと推察する。 「できれば少しお話をしたいのですが、乗っていただけますか? このままここに駐めておくことはできないので」  頼みこむように言われて拒むことができず、莉音は気乗りがしないまま車へと近づいた。  そんな莉音を迎え入れるように早瀬がドアを開ける。これまでずっと、莉音が座るのは後部座席だったが、早瀬が開けたのは助手席のドアだった。 「気軽にドライブでもしましょうか。まあ、社用車で言うようなことでもないですけど」  早瀬はそう言って笑った。  莉音が乗りこむのを見届けて、早瀬も運転席側へと移動する。どこという目的地も告げられないまま、車は走り出した。 「どうですか、就職活動はその後、うまくいってますか?」  ハンドルを握りながら、早瀬は気さくな感じで話しかけてきた。後部シートでお客様のような扱いを受けるのも馴染めなかったが、運転する早瀬の隣という位置関係もなんだか居心地が悪い。莉音は落ち着かない気分のまま、「いえ、あまり」と視線を落としたまま呟いた。 「顔色、あんまりよくないですね。職探しとアルバイトと、結構無理してるんじゃないですか? だいぶ(やつ)れちゃったような印象ですけど」 「大丈夫です。無理って言うほどのことはそんなに。もとの生活に戻っただけなので」 「そうですか? でも若いからって過信しちゃダメですよ? 倒れてからじゃ遅いですからね」  言ったあとで、ちょっと説教臭かったですかねと早瀬は苦笑を閃かせて肩を竦めた。 「あの、アルフさんは、お元気ですか?」  思いきって尋ねると、一瞬の沈黙の後、いまはアメリカに行っているとの答えが返ってきた。 「アメリカ……」 「って言っても、五日ほどの出張なんですけどね。まあ、わりとよくあることです」  早瀬の言葉に、莉音はそうなんですねと相槌を打った。 「相変わらずお忙しいんですね。でも、お元気そうでよかったです」 「まあ、そうですね。いつもどおりに仕事はしてます。一応なにごともなく。表面上は、ですけれども」  含みを持たせた返しをされて、莉音は「え?」と早瀬を顧みた。その視線に気づかないはずもないのに、早瀬は涼しい顔で前方を見据えていた。 「人に弱みを見せる人じゃないですからね。仕事に私情を持ちこむことはまずないですし、いつでも通常運転ってとこでしょうか。でも、もうずっと、眠れていないようですよ。口数も、以前よりずっと少なくなりました。まあ、もともとおしゃべりな人ではないですけれど」  その言葉に胸を衝かれて、莉音はキュッと口許を引き結んだ。  重い沈黙が車内を満たす。 「ねえ、莉音くん」  随分経ってから、早瀬はようやく口を開いた。 「社長と、喧嘩でもしちゃいました?」  軽い調子で問われて、莉音はわずかに目を瞠った。 「いえ、してません。喧嘩なんて」 「じゃあ、なにか嫌なことでもされたかな。もう顔も見たくなくなるくらい、ひどく傷つけられたとか、暴力的な振る舞いがあったとか」 「そんなことありません」  莉音は断固として否定した。 「そんなことはないです、絶対。アルフさんはそんな人じゃありません。いつでもとても優しくて、すごくよくしていただきました。むしろ、こちらが申し訳なるくらい」  社長、過保護ですもんね、と早瀬は笑った。 「とくに莉音くんには過剰なくらい」  おかしそうに言われて、莉音は返事をすることができなかった。そんな莉音に、早瀬は切り込むようにこうつづけた。 「でも莉音くん、このまま辞めるつもりですよね? こうやってなし崩しに距離を取って、そのままヴィンセントの許に戻るつもりはないでしょう?」 「それは……」  やはりどう答えていいのかわからず、莉音は俯いた。  就職活動に専念したいからという理由でヴィンセント邸に通うことを避けているのに、深夜のカラオケ店で夜通しアルバイトをしているのだから申し開きはできない。 「べつに責めているわけではないんですよ?」  悄然(しょうぜん)と俯く莉音に早瀬は言った。 「ただ、余計なお世話かもしれないですけど、このままおふたりを見ているのは忍びないんですよ」  困ったように笑う早瀬は、チラリと莉音を見やった。

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