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第7章 第1話

 ヴィンセントを襲った三人組の男たちは、高井戸署で面通しを行った翌日に逮捕された。  莉音を連れ去ろうとした容疑で取り調べを受けた男は、やはり犯行に携わっており、ヴィンセントと悶着を起こした連中と共犯関係にあることが取り調べをする中であきらかとなったとのことであった。  高井戸署に出向いた夜、莉音はヴィンセントの誘いを断り、今夜は別々に眠りたいと申し出た。理由を尋ねるヴィンセントに、いろいろ考えたいことがあるのだとだけ答え、それ以上説明することを拒んだ。ヴィンセントは一瞬、なにか物言いたげな様子を見せたものの執拗に食い下がることはせず、莉音の希望を聞き入れてくれた。だが翌日、自宅アパートに帰ると主張したことで、寛容な雇い主としての立場を放棄した。 「莉音、いったいなにがあった? 昨日から様子がおかしい。困ったことや悩みがあるのなら、私に話してくれないか?」  気遣うように問い質すヴィンセントに、莉音はなんでもないと首を横に振ることしかできなかった。 「犯人が捕まったのなら、ここに置いてもらう理由がありません。僕には自分の家があるんですから、帰るのは当然のことでしょう?」 「しかし――」  なにかを言いさして口を噤んだヴィンセントは、やがて小さく息をついてかぶりを振った。 「莉音、これは雇い主としてではなく恋人の立場からの正直な気持ちなんだが、私はこの一ヶ月、君とともに暮らせてとても幸せだった。仕事から帰った私を君が笑顔で出迎えてくれて、ともに食事をして、夜はこの腕に抱いて寝ることができる。それがとても嬉しかった。だがひょっとして、君の身を案じるという私の気持ちはたんなる押しつけで、本当のところ、君には大きな負担だったのだろうか?」  真摯な眼差しを向けられて、莉音はその顔をまっすぐに見返すことができずに俯いた。 「そ、んなことは、ないです……」  視線を避けたまま、そう呟くのが精一杯だった。  自分だって嬉しかった。嬉しくて、このうえなく幸せだった。  母を喪った悲しみと寂しさを、ヴィンセントが満たして、これ以上ないほどの優しさと愛情で包みこんでくれた。ヴィンセントが自分といることで感じてくれた以上に、この一ヶ月は自分にとって幸せで、かけがえのない時間だったのだ。 「お母さんとの思い出が詰まったあの家が、君にとってどんなに大切で、思い入れのある場所なのかよくわかっている。だが私は、できればこのままこの家に留まって、生涯のパートナーとして私のそばにいてほしいと願っていた」 「生涯の……」  ヴィンセントの言葉を聞いて、ますます胸が苦しくなった。素直に嬉しいと思うことができたら、どんなによかっただろう。 「莉音」 「やっ、ダメ!」  自分を抱きしめようとするヴィンセントの胸を、莉音は咄嗟に押しのけていた。  抱きしめられてしまったら、縋りたくなってしまう。ヴィンセントの腕の中が、どれほど心地よくて安心できるか、だれより自分がよく知っている。抱きしめられて、深く口づけられてしまえば、あっという間にすべてを委ねて拒むことができなくなるだろう。  なにもかも捨てて、ずっとそばにいたいと縋りついてしまう。けれど、それは絶対に許されないことなのだ。  住む世界が違う人なのだということは最初からわかっていた。自分がヴィンセントに相応(ふさわ)しい人間でないことも承知していた。それでも、ヴィンセントに求められて、そばにいられることが嬉しかった。だが、彼のそばにいるべき人間は、自分ではないのだ。 「莉音、なぜ……」 「アルフさんには、とても感謝しています。僕がつらいとき、ずっとそばにいて安心できるように守ってくれて、すごく救われました。でも、僕はちゃんとひとりの人間として自立したいんです。ペットや小さな子供のように、頼れるだれかに守られて、与えられるだけの生きかたなんてしたくない。ちゃんと、自分の足で立ちたいんです」 「莉音、私はなにもそんな――」 「お願いです、帰らせてください。帰って、ちゃんと仕事を探して、女手ひとつで僕を育ててくれた母さんに胸を張れる自分になりたいんです。母さんとふたりで生きてきたあの部屋で再出発して、今度は自分の力で生きていけるようになりたい」  莉音でもその名を知っているような、世界有数の大企業の令嬢。  美しく、だれより彼の隣に並ぶことが相応しい、おなじ価値観を共有できる女性。  自分がこのまま彼のそばに居つづければ、きっとその人生をだいなしにしてしまうだろう。約束された将来を、踏みにじることになってしまう。それだけは、どうしても避けなければならなかった。  これ以上、そばにいてはいけない。彼には相応しい世界があって、相応しい相手がいるのだから。  莉音をじっと見下ろしていたヴィンセントは、やがて、「わかった」と応じた。それが望みならば、希望に添うようにしよう、と。そして翌日、莉音は自宅アパートに戻った。  それから約ひと月。莉音は一度もヴィンセントのマンションを訪れてはいない。しばらくのあいだは職探しに生活の重点を置きたいと莉音が希望し、ヴィンセントがそれを受け容れたからだった。  このままズルズルと会わない時間を引き延ばして、正式にどこかで採用が決まれば、ヴィンセントとの繋がりもいずれきれいに消える日がくるのだろうか。  たったひと月、ともに過ごしただけなのに、ひさしぶりに戻った自宅アパートはどこか馴染まない、他人の家のような気がした。その感覚は、それからさらにひと月経ったいまも変わらない。 「たった一ヶ月のあいだに、贅沢が染みついちゃったのかなぁ」  台所の椅子に座ってテーブルに突っ伏し、顔だけを食器棚に飾ってある母の写真に向けて呟く。 「身の丈に合わない生活だったのに、こんなんじゃダメだよね。ちゃんと現実と向き合って、まえに進んで行かなきゃ……」  この一ヶ月、ハローワークに通いつめ、エントリーシートも履歴書も書きまくって手当たり次第に送ってみたが、いまだどこからも色よい返事がもらえずにいる。  求人の張り紙を求めて足を棒にして歩きまわって、くたくたに疲れて帰宅する日々。  だれもいない家に帰ることにも、独りの時間を過ごすことにも慣れているはずなのに、どれだけ時間が経っても寂しさを埋めることができなかった。差し伸べられた手を振りほどいて、背を向けたのは自分のほうなのに……。  莉音は唇を噛みしめて、両腕のあいだに顔をうずめる。  知ってしまったぬくもりを、その心から手放すことがどうしてもできなかった。

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