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第3話(2)
「莉音、緊張して疲れただろう。今日の夕食は外で食べるか? デリバリーでもいいし、なにか食べたいものがあれば買って帰ろう」
車の中で気遣うように言われて、莉音は大丈夫だと笑顔で応じた。
「今日、天麩羅 にしようと思っていろいろ材料を買いそろえてあるんです。だから楽しみにしててください」
莉音の言葉に、ヴィンセントは目もとをなごませる。
「わかった。なるべく早く帰ろう。だが、あまり頑張らなくていい。帰ったら、今日は家で少しゆっくりしていなさい」
出かけたとき同様、マンションの入り口まで送ってもらい。ヴィンセントはそのまま会社に戻っていく。走り去る車を見送った莉音は、小さく息をついて踵 を返した。その莉音のまえに、エントランスに差しかかったところで立ちはだかる人物があった。
豪奢な黄金の髪が目にも眩しい、スラリとした長身の美女だった。
「あの……」
堂々と進路を妨げられて、莉音は当惑する。ヴィンセントより薄く、明るい色合いの碧眼が、なぜか真正面から莉音を睨み据えていた。
「佐倉莉音さんですね? こちらはPSグループ創業家のご令嬢、シャーロット・スペンサー様でいらっしゃいます」
女性の背後に現れたスーツ姿の東洋系の男――おそらく日本人か日系人なのだろう――が、莉音に向かって言った。だが、そう説明されたところで莉音にはなんのことだかわからない。目の前の女性にも、まるで見覚えがなかった。
この人たちは、なぜ自分のことを知っているのだろう。そしてシャーロット・スペンサーと名乗る女性は、どうしてこんなにも自分に対して怒りを露わにしているのか。
「あの……? えっと、その……」
「ドロボッ、ネッコッ」
艶やかなルージュの引かれた唇から、憎々しげな言葉が吐き出された。思わず身を竦めた莉音を、あざやかなブルーアイが爛々と見据える。
「ミスター佐倉、あなたはアルフレッド・ヴィンセント氏をご存じですね?」
またしても後方にいる男が話しかけてきた。
「シャーロット様は、ヴィンセント氏の婚約者でいらっしゃいます。こう申し上げれば、我々が訪ねてきた意図がおわかりでしょうか?」
男の言葉に、莉音の頭は瞬間、真っ白になった。
「……え?」
いま、なんと言っただろうか。
ヴィンセントの婚約者。そう耳にしなかったか。
茫然とする莉音を、怒りに満ちた眼差しがじっと見据える。
泥棒猫。
彼女の発した言葉の意味を、莉音はようやく理解した。
「あなた方の関係については、すでに調べがついております。ヴィンセント氏はシャーロット様と婚姻を結ばれることによって、ゆくゆくはシャーロット様が継承されるPSグループの経営権をも掌握され、世界経済に大きな影響力を与えられる存在となる身。このような不名誉なスキャンダルが公になることがあっては困るのです」
男は淡々と告げる。
「シャーロット様は非常にお怒りです。いまならば婚姻前のちょっとした火遊びとして目を瞑るので、あなたにはヴィンセント氏との汚らわしい――失礼。もとい、不適切な関係を解消して、ただちに氏の許から立ち去ってほしいと、そのようにお望みです」
真っ白になった頭で、もうなにも考えることができなかった。
『莉音』
夜ごと自分を抱きしめ、愛情をたっぷり注いでくれているこのうえなく優しい存在が、突然手の届かない、遙か遠いところへ行ってしまったような気がした。
「アルフ、さん……」
どうして気づかなかったのだろう。
あんなに立派で、社会的地位もあるヴィンセントのような人間に、決まった相手がいないはずもなかったのだ。
恋人だと宣言され、毎日夢のように甘くとろかされて大事にされすぎて、そういったことに少しも考えが及ばなかった。
独身だからという理由だけで、そういった可能性をことごとく排除してしまっていた。
この先も幸せな時間はつづく。
なぜ、バカげた夢に浸りきってしまったのだろう。己の浅はかさに嫌気が差す。
気がつけば、莉音はマンションの入り口にひとりぽつんと立っていた。ヴィンセントの婚約者も、従卒していた男の姿もどこにも見当たらなかった。
心にぽっかりと大きな穴を開けたまま、莉音はエントランスを抜ける。果てのない虚 を思わせる、最上階まで直通の専用エレベーターへと向かっていった。
自分がどこに向かおうとしているのか、莉音にはもはやわからなくなっていた。
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