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    第1話(2)

『いいわ。あくまでもシラを切りとおすというのなら、あらためて教えてあげる』  莉音の見ているまえでソファーに座ったヴィンセントの婚約者は、優雅な仕種で足を組むとアームレストに片肘をついた。そして語られた内容――  莉音の祖母、多恵(たえ)は、十代のころに語学を学ぶ目的で海を渡った。  当時、女性ではまだ珍しく、なおかつ渡航後、学問をつづけるうえで経済的にも苦しかった彼女は、たまたま募集がかかっていたスペンサー家での住み込みの家政婦をすることになった。  ニューヨークに拠点を置き、現在、世界有数の金融機関として名を馳せているPSグループは、創設者であるピーター・スペンサーによって投資銀行業務を開始し、多恵が使用人として働きはじめたころにはすでに、アメリカ国内でも業界一、二を争うほどの成功をおさめていた。  多恵が使用人として採用されたのも、グローバル化を目指すピーターの希望に添う人材と見做(みな)されたためだった。  人種や文化の違いにより、当初、スペンサー邸で仕える使用人たちからも差別的扱いを受けていた多恵だったが、持ち前の明るさと物怖じしない性格から、次第に周囲の者たちとも打ち解け、輪に溶けこんでいくようになる。なにより、日本人ならではの細やかな気配りが主家の人々に気に入られ、重宝されるようにもなっていった。その多恵に殊更目をかけ、頻繁に私用を言いつけるようになったのがスペンサー家の長男、レナード・スペンサーだった。  ふたりは次第に惹かれ合うようになり、道ならぬ関係へと進展していく。  アメリカでも有数の大企業へと発展しつつあったPSグループ次期頭首候補と一介の使用人風情。事業拡大の目的のためとはいえ、レナードはすでにハウエル石油のひとり娘を妻として娶っており、ふたりのあいだには二男一女が儲けられていた。  関係をひた隠しにしながらレナードと多恵は逢瀬を重ねるが、やがて、多恵がレナードの子を身籠もったことで事態はスペンサー家当主、ピーターの知るところとなる。  息子のしでかした不始末に、ピーターが激怒したことは言うまでもない。  多恵はただちに解雇され、スペンサー家から追い出された。  身重の身体で帰国することもできず、多恵は異国の地でたったひとり、父親のない子を産み落とす。 「……それが、僕の母だと?」  莉音の問いかけに、ヴィンセントの婚約者はそうだと頷いた。  多恵はやがて、レナードとのあいだに生まれた娘を連れて日本へ帰国し、それっきりふたりが会うことは二度となかった。 『だけどずっと、お祖父さまは日本に帰国したその妾と子供のことを気にかけていたようなの』  レナード・スペンサーは、昨年十二月に持病の心疾患が原因で亡くなっている。だがその後、公開された遺言書の内容に一族は騒然となった。自分の所有する持ち株すべてを、多恵とのあいだに生まれた子供に譲り渡すとあったからだ。  PSグループ会長の座にあったレナードの保有する株式は全体の約五分の一にあたり、莫大な額にのぼる。これは、PSグループで発行している全株式のおよそ三分の一を占める現社長兼CEO、ダニエル・スペンサーの所有株には及ばないものの、社内でなんらかの問題が発生したときに、ダニエルに次ぐ発言権を有することを意味した。  ほかに、創業一族に連なる者たちの株式を持ち寄れば四分の一程度にはなるが、ひとりひとりの権限はレナードに遠く及ばない。これは由々しき事態になったと一族全体で頭を抱えることになった。 「でも僕、レナード・スペンサーなんて人、知りません。たしかに祖母の名前は多恵だけど、祖母からも、母からも祖父のことは聞いたことがないし、僕に関係のある話だなんて思えないです」  莉音の言葉に、ヴィンセントの婚約者であり、ダニエルの娘でもあるシャーロット・スペンサーは意地悪く口の()を上げた。たとえ莉音にその気がなくても、法的効力が有効である以上、なんらかの対応と手続きは踏まなければならないのだと。  レナードは多恵がスペンサー家を去る際、ひそかに生まれてくる子供のためにとダイヤの指輪を贈っていたらしい。認知することができなかった我が子にせめてもの父親らしいことを。指輪も遺言状も、レナードのそんな思いが込められていたのだろう。  レナード・スペンサーの所有株を相続できる資格のひとつに、その指輪を所有している者であることという条件が添えられていた。多恵の子供が見つからなかった場合、あるいはなんらかの事情でその子供への譲渡が適わなかった場合、その条件を満たす者に相続権が移行するとのことだった。  自宅を空き巣に荒らされた理由。自宅アパートで莉音が攫われそうになった理由が、ようやくわかった気がした。

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