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エピローグ
豊かな緑に、柔らかく降り注ぐ陽光、息を吸えば木々の香りと一緒に爽やかな空気が肺に入り込んだ。
飢えも乾きも感じない環境で、今俺は生きている。
生きるためならなんでもやった。
盗むことも、騙すことも、誰かを傷つけることだって、なんでも。
死にたいと思うことが、何度もあった。
消えたいと、逃げたいと、そう思うことが何度も。
だけど今俺は生きていて、血を分けた家族がいたりする。
血の繋がりがない家族だって沢山できた。
こうなるまでに色々なことがあった。
思い出せば今でも手が震える時がある。
こうなるためにあの経験が必要だったなんて、俺は思わない。
傷ついて初めて分かる感情なんて少なければ少ない程いいに決まってるんだから。
だけど、あの時間がなければ、俺はきっとこんなにもヒトを愛せなかったと思う。
お世辞にも良いとは言えない思い出だけど、それでも俺に掛け替えのない財産を与えてくれたきっかけになったのは確かだ。
「…寝たか」
大きなベッドにマリーと一緒に寝転んで、マリーが大好きなリドさんが書いた本を読んでいればいつの間にか小さな我が子は気持ち良さそうに寝入っていた。
子猫のように体を丸めて眠る姿に頬を緩ませいると静かに部屋のドアが開いた。
「しー」
「…、ああ、なるほど」
現れた番に静かに、と伝えるとそれで察したのか足音も立てずにベッドまでやってきてマリーの寝顔をじっと見つめる。すると直ぐにだらしないくらいに緩んだ美貌に俺はやれやれと息を吐く。
「親バカ」
「なんとでも言え」
ふん、と鼻で笑ったヴァイスがゆっくりとベッドに乗り上げマリーの隣へと寝転ぶ。
父親の気配が分かったのか、眠ったままではあるがヴァイスの方に体を擦り寄せた様子がまた可愛くてくすりと息が漏れた。
胸元の服をきゅっと小さな手で握って眠る姿は、ただただ癒しだった。
「…お前だって親バカだろうが」
「当たり前だろ。うちの子が一番可愛いわ。イチとニイとマリーがこの国で一番可愛い」
「はいはい、そうかよ」
「はい、は一回で良いんだぞパパさん」
マリーが起きないように小声で続けられる会話の途中で笑い出すのはいつものことだ。それを合図に本を適当な場所に置いて体ごとヴァイスの方に向ける。
窓からは暖かな春の風が入り込み、柔らかな日差しの中俺たちは顔を見合わせてまたどちらともなく笑みを浮かべる。
特別何が楽しいわけでも、おかしいわけでもない、ただ、こうしている時間があまりに穏やかで優しくて、気がつけば笑ってしまうのだ。
「…ソロ」
「んー?」
「愛してる」
穏やかな笑みのまま息をするように自然に紡がれた言葉に一瞬面食らう。
けれど直ぐに俺は笑みを深めた。機嫌よさそうに揺れる尻尾を視界の端に捉えて口を開く。
「俺は」
すう、と息を吸って言葉を続ける。
「あんたなんて嫌いだ」
目を限界にまで見開き時間が止まったかのように硬直したヴァイスに思わず吹き出す。
未だにショックから抜け出せない可愛い番の頬を撫でながら俺は言葉を紡ぐ。
「嘘だよ、俺も愛してる」
「…もう一回だ」
余程ショックだったのか尻尾をぺしゃりとベッドに垂れさせ、マリーが潰れない程度の力で俺ごと抱き寄せたヴァイスがじっと俺を見つめてくる。
不安に揺れる目を見るとやりすぎたか、と少し反省しながらそれでも口角は緩々と上がってしまった。
「愛してるよ、ヴァイス」
告げた言葉はしっかりと届いたのだろう。
グル、と喉を鳴らす音に目を細めた。
「マリーはー…?」
不意に聞こえた言葉に目を丸くすると間に挟まれたマリーが目を星のように輝かせてこちらを見ていた。それに今度こそ吹き出すように笑ってマリーを思い切り抱きしめれば嬉しそうな悲鳴をあげる。
「愛してるに決まってるだろーっ」
「えへへ、パパは?マリーのこと好きー?」
「当たり前だろうが」
「えー、ちゃんと言ってくれないといやっ」
可愛らしいほっぺたをぷくっと膨らませてそっぽを向く愛娘を前にすれば王弟殿下も形無しで、俺ごとマリーを抱き締めて柔らかな髪にキスを落とす。
「お前のことも愛してるよ、マリー」
俺とヴァイスからの言葉を貰ったマリーは満足そうに頷いてぱっと花が咲くように笑う。
「マリーも二人のことだーいすき!」
ふわり、ふわり、と春の香りとはまた違う匂いが部屋の中に浮かんでは弾ける。
聞こえる音もとても穏やかで、聞いているだけで心が満たされる。
「…しあわせだな」
低く、穏やかな声が直ぐ側で聞こえる。
顔をあげればこの数年で随分と表情が柔らかくなった番がいて、自然と顔が近づく。
「ああ、」
柔らかな感触は直ぐに離れて、額が触れ合った。
「幸せだ、すごく」
心から、そう思えた。
(おわり)
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