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第8話 秘められた初恋【春樹】

 春樹(はるき)も、義兄(あに)には言えない考え――非現実的とも言える罪悪感――を密かに隠し持っていた。 「両親に続き姉が事故に遭ったのは、自分が疫病神(やくびょうがみ)だからではないか。自分が、岳(たけあき)までも不幸に巻き込んでしまったのではないか」 「子ども好きの岳秋から、彼の子を身ごもっていた姉を取り上げてしまった。どうすればその罪を(あがな)えるだろうか」  両親亡き後、親代わりとして自分を育ててくれた姉の夏実が、恋人として岳秋を連れてきた。姉を取られる気がして嫌だった反面、『苦労した姉を幸せにしてくれる男性だったら』と春樹は期待していた。  初めて会った岳秋は、小学校を卒業したばかりの春樹にとっては大男だった。百八十センチ以上の長身で、筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)の大人の男性なんて、春樹の周りには他にいなかった。日焼けした肌、シャープな輪郭、意志の強そうな太い眉と太い鼻柱。胸板は厚く、首や腕は太い。精神的にも肉体的にも逞しそうで、いかにも世界を股にかけるジャーナリストだ。切れ長の目元や、笑う時に左右不均等に歪む口元からは、大人の男の余裕と色気を発散していた。 (この人は大人だし、かなりイイ男だ)  春樹は敢えて不躾(ぶしつけ)に、安定した稼ぎはあるのか、わざわざ田舎に引っ越して来たのは何か問題を起こしたのではないかと尋ねた。しかし岳秋は怒りもせず、誠実に答えてくれた。春樹を子ども扱いしない。そんな彼に好感を持った。姉は頰を染め瞳をきらきらさせて岳秋を上目遣いで見つめ、すっかり恋する女の顔だったし、岳秋が姉に向ける眼差しも、甘く優しい。二人が相思相愛なのは、十三歳の春樹にもはっきり分かった。  男らしくて頼りがいのある岳秋は、自慢の義兄(あに)で、大好きな家族だ。  姉が、身ごもった岳秋との赤ちゃんもろとも突然の交通事故で亡くなった時、白石家の親族の心ない会話に春樹は傷ついた。 「岳秋さんは若いし男っぷりも良いから、じきに再婚するだろう。死んだ嫁の弟がくっ付いていたら邪魔になる」  自分は単に彼の義弟というだけじゃない。男同士として築いてきた(きずな)がある。春樹はそう自負していたが、誰のもとで生活するかを自分で選べない弱い立場だと痛感した。  岳秋が白石家の親族の声を一蹴し、「ハル、これからも俺と一緒にいてくれ」と言ってくれた時。彼の傍にいることを許され存在を認められ、春樹はホッとした。プロポーズされたかのような嬉しさを感じた。 「彼の傍にいたい」  春樹が強く(こいねが)ったのは、この時が最初だった。  岳秋自身も妻子を(うしな)い深く傷付いていることに、春樹は気付いていた。彼の不器用な一途さや繊細さ、優しさ。十七歳も年下の自分が言うのもおこがましいが、春樹も岳秋を「守りたい」と思った。岳秋への感謝や思慕の情。守ってあげたい、良き理解者でありたい。姉を喪った悲しみの中で、血の繋がらない義兄と歩んできた道程で、彼への気持ちは恋へと育っていた。まるでアコヤ貝が体内に含んだ異物を大切に包んで真珠を育てるように。そのことを、春樹は義兄よりも早く自覚していた。  一方、姉と愛し合った男性に惹かれたことは、罪悪感の一部でもあった。畢竟(ひっきょう)、春樹の恋心は、ひとり胸の内に秘められていた。  三十代も半ばに差し掛かる岳秋は、ひときわ男の魅力を増していた。妻を喪った悲しみを(たた)えた様子すら、(かげ)りのある色気として女の目に映るらしい。春樹には隠そうとしていたが、色んな女性から秋波を送られている様子もある。  そんな岳秋が、寝ぼけたとはいえ、春樹を抱き締めてくれた。男同士の友情のハグとはまるで違う。情熱的なのに優しい。岳秋の抱擁は、彼の内面そのものだった。彼はこんな風に好きな人を抱くのかと、性的な経験が全くない春樹はどきどきした。まだ岳秋の心にいるのは夏実だと思い知らされたことは切なかった反面、他の女性は彼の中で特別な位置にはいないことを知り、ホッとしたのも事実だった。  しかし、その日の夜には新たな衝撃を受けた。そわそわした様子で帰宅した岳秋からはレディースの香水の匂いがした。カマを掛けたら、恋人でもない女性と勢いで肉体関係を持ったと白状したのだ。  岳秋は、春樹にとって特別な存在だった。それだけに、一夜限りの関係を持つような軽薄な男なのかと、内心強いショックを受けた。昨夜の情熱的な愛撫は何だったのか。夏実や自分は、彼にとってどういう存在なのか。年頃だけに、もちろん春樹も性的なことに興味はあった。しかし、岳秋が他の女性と安易に事に及んだと思うと、亡き姉や自分の気持ちが(けが)されたように感じ、悲しみや怒りが湧いてくるのだった。  冷ややかな態度から、岳秋は、春樹の怒りを感じ取ったらしい。しばらく肩身が狭そうな様子だった。しかも、あの日以来、彼には頻繁に女性から電話やメールが来ている。微妙な反応から、きっと肉体関係を持った相手だろうと春樹は勘付いていた。岳秋はその女性と付き合う気はないようだが、相手は関係が続くことを期待しているのだろう。一夜限りの遊びなら、きっちり後腐れなくしろ、相手に変な期待を持たせるな、と言いたくて春樹は苛々した。  ある日の夕食中にも、岳秋のスマートフォンに着信があった。彼は発信者の名前を見て無視しようとしたが、春樹は少し意地悪な気持ちになり、白々しく聞いた。 「アキ、電話鳴ってるよ? 仕事じゃない? 出なくて良いの?」 「……あぁ」  岳秋は軽く溜め息をつきながら、玄関でサンダルを引っ掛けて外へ出た。抑えた声でボソボソと話していて、話の内容は分からないが、彼はすぐには電話を切らない。きっと相手は仕事の関係者だ。完全に関係を切るのも難しいのだろう。頭では、春樹も大人の事情を理解している。しかし、彼が肉体関係を持った女性と連絡を取り続けていること自体が春樹を傷付けていた。  異物を取り込んだアコヤ貝が苦しむように、叶わない恋に春樹の胸は痛む。次々と引っ掻き傷ができ、じわじわと血が滲んでいる。自分で敢えて傷を抉るような真似までしている。義兄が好き過ぎて、自分は少しおかしくなっているのかもしれない。膿んだような痛みを感じながら、春樹は箸を止め、岳秋が帰ってくるのを待った。 「ハル、待ってたの? ごめんな。食べてて良かったのに」  戻って来た岳秋は、春樹のご機嫌を取るように優しく話し掛けてくる。そんな風に接するのは、また何か疚しいことを隠しているのだろうか。春樹は一瞬、真剣な眼差しで岳秋を見つめた。きゅっと唇を噛み締めた後、何気ない風に言った。 「うん。せっかくだから一緒に食べた方が良いかなと思って」  彼が夢で抱くのは亡き夏実であり、現実に抱くのは恋人でもない女性だ。幼く、同性の自分には、割り込む隙間すら見当たらない。ましてや、彼にとって、自分は単なる義理の弟だ。振り向いてもらえる可能性は限りなく低い恋だと、理解はしている。  しかし、どうしても初めての恋を諦められなかった。岳秋に打ち明ける前に葬ってしまうには、春樹の恋は切実すぎた。  岳秋が女性から「モテる」反面、身持ちが固いことも、春樹は知っていた。それだけに、今回のことは衝撃だった。岳秋が他の誰かのものになってしまうかもしれない。春樹は、猛烈に危機感を抱いていた。追い詰められた春樹が思い付いたのは、岳秋の愛する夏実に似ている、自分の容姿を利用することだった。  本当は、自分自身が岳秋に愛されたかった。卑怯な手は使いたくなかった。しかし、なり振りなど構っていられなかった。 (姉さん、ごめん。でも、姉さんの分まで絶対にアキを幸せにする。だから許して……)  夕食中に女性から電話が掛かってきた翌日。  春樹は祈るような気持ちで、夏実の遺品から引っ張り出したワンピースに袖を通し、岳秋の帰宅を待った。

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