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第9話 禁断の恋だと世間に指をさされても【春樹】
「ただいま」
そう言いながら居間に入ってきた岳秋 は、ミモザ色のワンピースを着た春樹 の姿を見て、ギョッとした表情を浮かべた。夏実 の亡霊が現れたとでも思ったのだろう。
春樹はソファから立ち上がり、ぎこちなく歩み寄ると、おずおずと両手を伸ばして岳秋に抱き付いた。
「それ、夏実の服だよな。どうした? 姉さんが恋しくなったのか?」
岳秋はさり気なく、抱き付いた春樹の手をほどいて身体を離そうとする。春樹は抵抗した。
「アキ……。今も、姉さんを愛してる?」
「……ああ。今も愛してるよ」
「他のどの女の人よりも?」
春樹は唇を震わせながら、岳秋の目を覗き込んだ。
「……え? 他の女って何だよ?」
岳秋は訝 しげだ。春樹はかぶりを振った。
「僕、知ってる。アキ、モテるよね? 今は誰とも付き合ってないかもしれないけど、どんどん女の人が寄って来るでしょ? こないだも、恋人じゃないかもしれないけど、女の人を抱いてたし。
……僕を姉さんだと思ってくれて良いから。姉さんの身代わりで良いから、僕を抱いて」
必死に訴える目からは、次々に涙がこぼれる。岳秋は、痛々しいものをいたわるような表情で自分を見ている。哀れみを乞うてはいけない。欲しいのは同情ではない。涙を拭ったり取り繕ったりする余裕はなかったが、子どものように泣き喚いてはいけないという自覚はあった。
「僕だって色々葛藤してるんだ。なんで、よりによって姉さんの旦那なんだって。年齢 も離れてるし、そもそも男同士だし。でも、僕はアキが好きなんだ。アキじゃなきゃダメなんだ……。僕を姉さんの身代わりにして。身長も同じくらいだし、顔も似てるでしょ? だから、他の人のところになんか、行かないで……」
心を振り絞った捨て身の春樹の告白に、岳秋は天を仰いで大きく一つ息をついた。そして、覚悟を決めた表情で、春樹を真っ直ぐ見つめた。
「ハルを夏実の身代わりになんか、できないよ」
生きた肉体をもってしても、死んだ夏実に敵 わないのか。春樹は絶望した。岳秋はなおも続ける。
「夏実は夏実だし、ハルはハルだ。誰かが他の誰かの代わりなんか、できるわけない。そんなの、誰も幸せにしないよ。夏実もハルも傷付くだけじゃないか。
……俺は、ハルを愛してる。死んだ妻の弟を愛するなんて、おかしいだろ? でも、俺は、おかしな男なんだ。だから、ハルは自分と姉さんを傷つけるな。
悪いのは俺だ……。全部、俺のせいにしろ」
絶望から驚愕。急激すぎる変化に、頭も心も付いていかない。春樹は言葉を失った。涙も止まり、ポカンと口を開けて岳秋をまじまじと眺めた。彼は、まるで自身の不治の病を打ち明けるような、真剣な表情だ。
「俺、照れ屋だから。もう一度だけ言う。
……ハル、愛してる」
岳秋は、春樹を優しく抱き寄せた。肩や背中に回される腕が、触れる指先が、これまでとは違う。少しためらいがちで、大切な、壊れやすいものを守ろうとするかのようだ。彼の逞しく温かい肩に包まれ、ホッとした春樹の目から再び涙がこぼれた。さっきは塩辛かったのに、今は甘くすら感じる、安堵と喜びの涙だ。唇を噛み締めたが、言葉にならない嗚咽が漏れる。子どもをあやすように背中を優しくさすられて泣き止むと、岳秋は愛おしいものを見詰めるように春樹の顔を覗き込んだ。
彼と顔を合わせると、今更ながら、素肌に夏実のワンピース一枚を羽織っただけの姿で『抱いてくれ』と迫ったのが、いかに大胆かに気付く。素に戻り、春樹は頬を赤らめた。羞恥と緊張で俄かに身体がこわばり、細かく震え出すのを感じた。
(抱いてと言い出したのは僕なのに、震えちゃダメだ……。子どもっぽいって、呆れられちゃう)
身体の震えを止めようとしたが、意識すれば余計ひどくなるだけだった。誘惑するつもりだったのに、泣いて駄々をこねただけの自分が不甲斐ない。チラリと上目遣いで岳秋を窺うと、彼は慈愛に満ちた表情で、春樹が落ち着くのを静かに待っている。緩く春樹の身体を腕で包み、落ち着き払っている。
「……アキは、やっぱり大人だね。僕が『抱いて』って言うぐらいじゃ、全然動じない」
自虐的に春樹が弱々しく呟くと、岳秋は少し怒った表情を浮かべ、腕の力を強めた。
「男が、好きな相手を抱き締めて何もしないのが、どんだけ理性を問われるか。分かってないだろ、ハル」
「そ、そうなの……?」
自分に欲望を感じていると打ち明けられ、春樹の頬は熱くなった。
「そうだよ。寝ぼけて夏実と間違えたと思ってるみたいだけど、俺が夢で抱いてたのは、ハル、お前なんだ……。
俺も、すごく悩んだ。義理とはいえ兄弟だし、年齢 も離れてるし。こんな気持ちになる自分はおかしいんじゃないかって。あのままだと、そのうち、ハルにもっといやらしいことしそうな自分が怖かった。欲求不満なのかと思って、女の人としてみたんだけどさ。性欲の問題じゃないって分かっただけだった。
……だから、今はハルの気持ちだけで十分だよ。無理すんな」
あの愛撫や甘い囁きは、自分に向けられたものだった。春樹の胸は甘酸っぱく、少し気恥ずかしくなった。頰だけでなく、身体も一気に熱を孕 み、鼓動も早まる。
「アキ、我儘 ばかり言ってごめんね……。最後までするのは、まだ具体的にイメージできないし、正直言って怖いんだ。でも、何もないのも寂しい。何か形が欲しいよ……」
春樹は潤んだ瞳で岳秋を見上げた。岳秋は一瞬怖いくらい真剣な表情を浮かべたが、フッと苦笑した。
「バカ。本当に好きな人に、いきなり最後までするわけないだろ。俺だって怖いよ。物事には順序ってもんがあるだろ」
岳秋は春樹の小さな顎の下に指先を添え、軽く持ち上げた。
「……じゃあ、キスしていい?」
熱情を抑え込むように、少し低めた声で岳秋は囁いた。春樹は無言で頷き、瞼を閉じた。岳秋は、ゆっくり春樹に口付けた。頰に感じた彼の吐息は熱かったが、唇は控え目にごく軽く触れただけで、すぐに離れていく。少し残念に思ったら、時間を置かずに、再び唇が重ねられる。
(アキの唇、こんなに柔らかいんだ……)
春樹には、キスを返す余裕も手管もない。ただ、うっとりと岳秋の腕の中に身を委ね、繰り返し与えられる口付けを受け入れた。下唇を上下の唇で啄 むように食まれる。春樹の唇の厚みや柔らかさを確かめながら愛撫するかのように。その優しくも官能的な動きに、春樹は敏感に反応した。
「んっ、ふっ」
小さく声をあげ、身じろぎする。呼応するように、春樹を包む腕と押し当てられる唇が強くなる。一定のリズムで強弱を付けながら繰り返し唇を吸われ、春樹は震えた。生まれて初めての快感に対する、本能的な驚きだった。岳秋は静かに唇を離すと、吐息混じりに呟いた。
「少しだけのつもりだったんだけど。俺も興奮しちゃった。怖がらせてごめんな」
慌てて春樹はかぶりを振り、たどたどしく言い訳した。
「怖くはなかったよ。ただ、あの……。僕、初めてだったから。こんなに気持ち良いなんて、知らなかったから」
「……気持ち良かったの?」
頰を染めて小さく頷くと、岳秋は苦笑していた。
「初めてのキスで、こんなにハルが色っぽい表情 するなんて想定外だったよ。これから俺は理性との戦いになりそうだな」
返答に困り、まごまごと目線を泳がせる春樹の前髪を優しく梳いて横に流し、覗いた額に岳秋は小さいキスを落とす。
「大丈夫だよ。俺、けっこう理性強いほうだから。それに、これまでもこれからも、ハルは俺の大事な義弟 だ」
岳秋の眼差しも声も、いつものように優しい。しかし、以前は無かった一抹の甘さが含まれていることに春樹は気付いた。春樹の胸にも甘やかな感情が広がった。亡き姉の夫だった岳秋への恋愛感情は、常に罪悪感から、薄氷を踏む緊張を伴っていた。しかし、互いの気持ちを打ち明け合い、唇で確かめ合い、彼の腕の中に包まれていると、氷など全て溶けてしまったかのようだった。自分は禁断の恋の奔流 に飛び込んでしまった。世間に後ろ指をさされるかもしれない。でも、恐ろしくはない。隣には岳秋が一緒に泳いでくれているのだから。
その後も、二人の関係は表面上大きく変わることはなかった。一緒にお風呂に入ったし、同じ部屋で寝起きしていた。
「もう二年も毎日お前の裸見てるんだぞ? 今更隠しても、しょうがねーだろ。俺、お前のほくろの位置まで言えるぞ」
せめて入浴くらいは分けるべきかと相談したら、岳秋は即座に習慣を変える必要はないと言い切った。しかし、何でもない日常の触れ合いの中に、不意に甘い空気が漂うことは避けられなかった。加えて、おはよう・おやすみの挨拶に、ごく軽く唇を重ねることが、二人の新たな習慣になった。これまでも、岳秋の肌の温もりを感じる機会は多かった。しかし互いの恋心を打ち明け合った今、触れ合う唇や指先からは、これまでとは少し異なる恋の熱と、より強い愛情が感じられ、春樹の胸は静かな幸せで満たされた。
二人は夏実の墓参りに出向いた。春樹は長い間、熱心に祈りを捧げた。その後ろ姿を岳秋は写真に収めた。墓前に手を合わせる儚げな少年の後ろ姿を捉えた岳秋の写真は、大手新聞社の交通遺児に関する特集に採用された。
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