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第16話 破局の危機【春樹】

「医学部のある学校の多さ、精神科のある病院の多さを考えると、大学進学を機に東京に行きたい」  春樹(はるき)岳秋(たけあき)に打ち明けた。 「俺も一緒に行くよ。もう一度、東京を拠点にする」  岳秋の言葉を聞き、春樹は嬉しそうに彼の首に抱き付いた。 「そう言ってくれると思ってた! アキと離れたくなかったから嬉しい。紺野(こんの)さんも、アキが東京に戻ったら、きっと喜ぶね」  レイプ未遂事件直後は、周囲の生徒たちも陰鬱(いんうつ)な空気を発する春樹を遠巻きに眺めていた。しかし精神的な重荷から解放された春樹が、年相応の無邪気な笑顔を見せ、周りに(ほが)らかに接するようになると、あっという間に人気者になった。生徒会や、学園祭・体育祭の実行委員に誘われるようにもなった。春樹の高校生活後半は、まさに一度しかない青い春を謳歌(おうか)する貴重な時期になった。  そして、見事、現役で第一志望校の医学部に合格した。元々成績は優秀だった上、明確な目標ができ勉強にも熱が入ったからだ。  こうして岳秋と春樹の義兄弟(きょうだい)は、新天地へと住まいを移した。岳秋三十五歳、春樹十八歳の春だった。  肉親との死別やレイプ未遂など、大きな心の傷を乗り越えてきた。  岳秋とも互いの気持ちを打ち明け合い、人生の目標も定めた。  本来なら、春樹の人生は順風満帆な時期を迎えるはずだった。  しかし、東京での生活が始まってから、肝心の岳秋との関係は、何かがギクシャクしていた。彼の春樹への態度は、どことなくよそよそしい。互いの生活リズムが変わり、寝室も完全に別になった。自然と、おはよう・おやすみのキスもなくなった。春樹がそれとなく迫っても、気づいていないふりで流される。彼が春樹を抱き寄せたり口付けたりすることは、パッタリと途絶えていた。  入学後、『医者は体力だ』との先輩の勧めで、春樹は医学部テニス部に所属している。テニス部に入って身長も伸びたし、筋肉も付いた。狙いだった体力増強の効果も出ている。練習でクタクタになって帰宅しても、少し仮眠すれば勉強できる。完全に自分のペースだ。便利な生活ではある。しかし、大の男二人が一つの布団に身を寄せ合い、時には軽く戯れて眠った頃が恋しかった。  岳秋が自分を大切にしてくれていることに、疑問を抱いたことはない。しかし、彼とは、いまだに最後まで身体を繋いだことがない。このことは、春樹の密かな悩みであり、劣等感の種だった。新しい世界の入り口に立ち、春樹の人間関係は大きく広がった。爽やかな青年らしい魅力を、多くの人に賞賛されても、心から求めてやまない恋人からは身体を求められない。その寂しさは埋められなかった。  きっと、春樹と同じ年頃の青年ならば、多くの場合、自分より少し恋愛経験豊富な友人に相談するだろう。しかし、故郷から離れた土地の大学に入学したばかりの春樹には、義理の兄との恋を――ましてや肉体関係が持てずに悩んでいるなど――相談できるほど心を許せる友人はいなかった。それに、初恋の人が岳秋という奥手の春樹は、 「自分から積極的に行ったら?」 などとアドバイスされたとしても、 「僕には無理」 と、尻込みしていただろう。 (なんでアキは僕と最後までしないんだろう……。やっぱり、男の僕には、そういう魅力を感じないのかな。最近、全然僕には触れてもくれない。高校生の頃ならまだしも、今じゃ『可愛い』なんて言ってくれる人もいないし……)  卑屈な考えが春樹の自尊心を(むしば)んだ。不満や苛立ちは、心をささくれ立たせる。日常生活の中で、これまでは笑って許せた些細(ささい)な岳秋の振る舞いに、春樹は腹を立てるようになった。 「ちょっと、アキ! なんで脱いだ靴下、洗濯かごに入れないのさ!」  腕を組んで睨み付ける春樹に、岳秋は溜め息をつきながら、いやいや靴下を拾い上げ、面倒くさそうに洗濯かごに放り込んだ。春樹の小言をうっとうしく感じているのが見え透いた態度に、更に春樹の苛立ちは大きくなる。 「それと、ちゃんとズボンのポケットは確かめてよね。何回言っても、いっつも何か入ってる。レシートとか小銭とか、爪楊枝(つまようじ)とか。ゴミ箱じゃないんだから」 「はー……。うるせぇなぁ。母親より嫁より、小舅(こじゅうと)が口やかましいって。何の罰ゲームだよ、コレ」  岳秋の小声の呟きは、春樹の劣等感のど真ん中に突き刺さった。 (どうせ僕は、アキの嫁にもなれない存在だけどさ……) 「……姉さんがアキを世話してたのなんて、たった一年じゃん。僕なんか、五年近くアキと一緒に暮らしてるんだよ? 僕だって、一年目にアキに文句言ったことなんかないし。第一、アキだって、姉さんにはもっと気を遣ってたよね?」  長年岳秋と暮らし、彼の性格を熟知している春樹が放り込んだ嫌味は、的確に彼の弱みを(えぐ)った。岳秋は、片方だけ眉を引きあげ、皮肉な笑みを口元に浮かべた。 「そりゃ、俺だって夏実には優しくしたさ。あいつは優しい女だったからな。あいつが生きてたら、今だって、洗濯物で小言なんか言わなかったと思うぞ」  互いに性格や心情を深く理解しているだけに、互いへの非難は、相手の心の弱い部分にクリーンヒットした。特に最後の一言は、亡き姉に対する春樹の複雑な気持ちを逆撫でした。  肉親としての思慕。  彼女が愛した男性に惹かれてしまった後ろめたさ。  彼女に対する劣等感。  不毛な言い争いに片足を突っ込んでいることには気付いていた。しかし、苛立ちが悲しみや怒りに育ち、感情が昂り始めていた春樹は、ここで止まれなかった。無言で、自分のデニムのポケットから取り出した小さな丸まった紙片をダイニングテーブルに無造作に放り投げた。(いぶか)しげに紙片を手に取った岳秋は、それが何かを思い出し、バツの悪そうな表情を浮かべた。 「いや、これは、取材先の人が行きたがって。付き合いっていうか、接待で」 「ジャーナリストとセクキャバに行くって、どんな取材だよ……。そんなにおっぱいが好きなの? 悪かったね、僕はぺったんこで」 「……人を色情狂みたいな言い方するな」  最後は静かに低い声で呟き、岳秋は自分の部屋に閉じこもった。  気まずい空気で終わった(いさか)いの後、岳秋と話ができないまま、春樹は大学の授業に出た。お互いの弱みを抉り、傷つけあう会話の苦々しさは、喉の奥に、魚の小骨のように引っかかっていた。自分には触れず、お店の女性とは戯れていたと知り傷ついた。それを分かってほしかっただけだ。  反省もしていた。嫉妬から、嫌味っぽく彼を傷付けるような言葉を投げつけたことを謝って、仲直りしたい。  春樹は、授業が終わった後、定例の打ち合わせが行われているはずの新聞社に足を運んだ。新聞社のロビーを横切りながら、岳秋に電話しようかと思った矢先に、明るい声で話し掛けられた。 「あー、やっぱり春樹君だ! 珍しいねえ、ここまで来てくれるなんて」  振り返ると、岳秋の同期・紺野が、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべている。 「紺野さん、こんにちは。ご無沙汰してます」  つられて素直に笑顔を浮かべながら、春樹は軽く頭を下げた。 「テニス部に入ったって聞いてたけど。背も伸びたし、体格も男っぽくなったよね。カッコ良いなぁ。春樹君、女の子にモテるんじゃない?」  何の裏も無さそうな紺野の誉め言葉に、春樹は無言で苦笑いした。 「ところで、今日はどうしたの? 黒崎なら、もう帰ったよ。あいつ、今日お見合いなんでしょ? 慣れないスーツなんか着ちゃって(笑)」  何気ない紺野の言葉に、春樹は目を剥いた。 「……お見合いの場所って、どこですか? 紺野さん、聞いてます?」

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