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第17話 別れの覚悟【岳秋】

黒崎(くろさき)さんのご趣味は何ですか?」  上品な割烹料理店の個室で、目の前に座っている女性が、穏やかに岳秋(たけあき)に微笑みかける。彼女は、岳秋の叔母が運営する茶道教室の生徒さんだ。人目を引くような美人というのではないが、物腰や態度に温厚な人柄が滲み出ている。 (家庭を持つには、こういう落ち着いた人のほうが良いんだろうな)  ときめきは感じない。しかし、自分が求めているのは、安定した家庭を築く伴侶だ。めくるめく恋の相手ではない。目的を改めて思い出し、岳秋は愛想良く、お見合い相手の女性に微笑み返した。  岳秋もまた、春樹(はるき)との関係に悩んでいた。  春樹は、家族を突然の事故で喪った悲しみを共に乗り越えた同士だ。五年も二人で暮らしてきた。彼と二人三脚で歩んだ年月は、亡き妻である夏実と過ごしたそれを、とうの昔に追い抜いている。そのことを、今朝、春樹との(いさか)いの中で改めて気付かされた。  大学生になった義弟は(まぶ)しかった。元々の整った顔立ちに、溌溂(はつらつ)とした青年らしさが加わった。以前の中性的・ロリータ的な危うい色気は、爽やかな若い男性の魅力に変化しつつある。身長も百七十センチを超えた。テニス部で鍛え、細身ながらも薄っすらと全身に筋肉を(まと)い始めている。  第一志望の医学部に合格し、将来の夢に向かって学業にも燃えている。楽しそうに大学に通い、授業後も、同級生やテニス部の仲間と出掛けて夜も家に居ない日が、月の半分近くにもなった。  そんな彼に、岳秋は少し距離を置くようになっていた。新しい世界に羽ばたいて輝く瞳と、引き締まった若々しい身体に引け目を感じ、何となく、彼を抱き寄せたり、口付けたりすることも避けていた。  時折、彼が寂しそうな目で自分を見ていることには、気付いていた。にもかかわらず、岳秋は愛ゆえに、彼との関係から卒業すべきなのではと考え始めていた。 「こんな歳の離れた義兄(あに)ではなく、同年代の女性と一緒になり、普通の幸せをつかんだほうが、彼のためなのではないか」 「自分と彼の関係に、未来はあるのか」  思い詰めた岳秋が出した結論は、『自分が積極的に身を引く』だった。世話好きの叔母から過去何度か持ちかけられたお見合いは、全部断ってきた。だが、春樹の未練を断ち切り、他に目を向けさせるためには、自分の再婚は最も効果的な手段に思えた。だから、今回は首を縦に振ったのだ。 「お似合いの二人よねえ」 「ええ、本当に。先生から良いご縁を頂きまして」  同席している岳秋の叔母、そして昔から叔母の生徒だったお見合い相手の母親は上機嫌だ。  和気あいあいとした空気は、次の瞬間、一変した。  スパーンと小気味良い音を立て、勢い良く個室のふすまが開かれた。般若(はんにゃ)の形相で立ち尽くしているのは春樹だ。お見合い相手や叔母たちは、ポカンとあっけに取られ、言葉を失っている。春樹は、きっと周囲を一瞥(いちべつ)して(にら)み付ける。 「アキ! 帰るよっ!」 「ちょ、何、言ってるんだ! ……すいません、これは前妻の弟で。彼女が亡くなった後、面倒を見てきたんです」  まさか、お見合いに春樹が乱入してくるとは。想定外の出来事に困惑しながらも、岳秋は、お見合い相手をフォローした。その行動が、春樹の怒りをヒートアップさせた。 「単なる義弟(おとうと)じゃないでしょ?!」  春樹は、憤然(ふんぜん)とした表情で言い放つ。頬や耳が赤い。彼の興奮した表情や態度に、岳秋の脳内で警報が鳴り響いた。このままだと、何を言い出すか分からない。不必要に刺激してはいけない。 (まるで手負いの動物だ)  以前、海外取材中に出くわしたヤマネコが毛を逆立てて人間を威嚇(いかく)する姿を、岳秋は思い出していた。 「……お前は、何がしたいんだ」  抑えた声で、春樹の出方を(うかが)った。 「何がしたいんだ、って? はっ! それはこっちの台詞だよ! 恋人の僕に何も言わずに、お見合いなんかして。僕を捨てて再婚する気なの?!」 「ああ、そうだよ。未成年だったお前を放り出すわけにはいかないから、一緒にいただけだ。五年も面倒見たんだぞ? 十分だろ。俺だって、新しい人生を歩いたって良いじゃないか。再婚を考えて何が悪い」 「別れたいなら、別れ話が先だろ! 男らしくないよ、やり方が。僕はアキと別れないからね!」  真剣で斬り合うような応酬。目の前で繰り広げられる修羅場の緊迫した空気に、女性陣は固唾を呑んでいる。 「……確かに、僕は姉さんが死んだ時は、子どもだったよ。アキがいなかったら、ここまで生きていられなかった。……でも、アキだって、僕がいて助かったと思ったこと、いっぱいあるんじゃないの?」  春樹は、いつの間にか目に涙を浮かべていた。眉を下げて悲しげに自分を見つめている。 「お前がいてくれて、助かったのは事実だ。でも、それとこれとは別の話だ」  春樹の涙に、ぐらぐらと心は揺れる。嘘をついて彼を泣かせた罪悪感や、彼と別れる悲しみで、岳秋の胸も痛む。だが、ここで彼の許に戻っては、元も子もない。岳秋は心を鬼にして、表情を変えず冷静な口調で答えた。  唇を噛み締めた春樹は、くるりと岳秋のお見合い相手を振り向き、彼女に話し掛ける。 「……お姉さん。この人、今日はカッコつけてますけど、実は水虫持ちなんです。しかも、身体が固いから、自分で足の裏に薬が塗れないんです。姉が亡くなった後は、ずっと僕が彼の足の裏に薬を塗ってます。もし、この人と再婚したら、僕の替わりに水虫の薬、塗ってくれますか?」 「あの、黒崎さん。こんなに慕っておられる義弟さんがいらっしゃるのに、お二人の間に横槍を入れるなんて、私、できそうにありません。このお話、無かったことにしていただけます?」  岳秋のお見合い相手の女性は、薄い苦笑交じりに礼儀正しく断りを述べた。きれいな所作で頭を下げると、無言で席を立つ。叔母とお見合い相手の母親は、衝撃に言葉を失っていたが、慌てて彼女の後を追うように、そそくさと立ち上がった。  会計を済ませ、お店を出た後、岳秋は烈火のごとく怒った。 「なんでお前がここにいるんだよ! お前のせいで、せっかくのお見合いがぶち壊しじゃないか!」  体格の良い義兄に大声で怒鳴られても、春樹は全く怯みもせず、怒鳴り返す。 「ぶち壊すに決まってるだろ!? なんだよ、別れ話もしないうちから次の相手探しだなんて! どういうことか説明して欲しいのは、こっちだよ!」 「人の気も知らないで。お前は、若いんだ。未来があるだろ?! 俺みたいなアラフォーの男やもめにくっ付いてても、何も良いことなんかないぞ!  ……全く、お前ってやつは。説得しても、聞きゃしない。少しずつ遠ざけようとしても、ついてくる。俺が再婚すれば、さすがに諦めると思ったんだよ!」  怒りに任せ、岳秋は、つい本音を吐き出していた。 (……しまった!)  慌てて口をつぐみ、春樹の様子を窺った。眉をハの字に、口をへの字に曲げた不細工な表情を浮かべ、ぽろぽろと涙をこぼしている。夏実の葬儀で、これからも一緒にいてほしいと岳秋が頼んだ時、心細げだった白い顔に涙を浮かべた、少年の春樹を思い出した。  あの頃と今と、春樹の本質は何ら変わっていない。世間に向ける表情が硬いのは、傷付きやすい彼自身を守るための鎧だということを、岳秋は知っている。子どものように無防備な彼の素顔を知っているのは、自分だけだ。  こんな状況だというのに、彼の伏せた長い睫毛にまつわりついた涙に、岳秋は一瞬見とれた。そして、その美しさに似たものを、頭の中で探した。透明で純粋だが、ダイヤモンドのような華やかさや厳しさとは違う。 (真珠だ。真珠みたいだ)  アコヤ貝が、その身を痛めながら取り込んだ異物に、自らが生み出した真珠層を幾重にも巻き付け、何年も掛けて育てる虹色の優しい輝き。大切な家族を次々に喪う不幸や、その美貌ゆえのトラブルに傷付きながらも、同じような苦しみを抱える人を助ける医者を志した、心優しく気高い春樹にふさわしい。 「……泣くなよ」  嘘をついて彼を傷付けたことに対する申し訳なさ。  本当は自分も彼と離れたくなどなかったという切ない気持ち。  それらが、渾然一体に自分の声に滲んでいると岳秋は思った。  子どものように声をあげて泣き、岳秋の胸を両の(こぶし)で叩く春樹を、岳秋は強く抱き締めた。 「アキのバカ! 一緒にいてくれって言ったのはアキじゃんか! 僕、捨てられるのかと思って、悲しくて辛くて、不安だったんだからね! もう、やめてよ! こういうこと」 「不安にさせてごめんな……。もう二度とお前を離さない」

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