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 はちみつに生姜、それから大根まるまる一本。収録スタジオからの帰り道に立ち寄ったスーパーで、きっちり同じ品物をカゴに入れる。(さとる)のそのルーティンを下らないと馬鹿にする者もいるけれど、当の本人は言わせておけとばかりにどこ吹く風で受け流している。  一人暮らしの二十代後半男性には不似合いなカゴの中身と共に、ぐるりと店内をもう一周。  ――あ、これ今日の現場で話題になってたやつ。  必ず立ち寄るお菓子売り場のキャンディコーナーで、いかにも喉に良さそうなはちみつ色をしたパッケージののど飴を手に取る。三十秒ほどその場で逡巡し、結局、手の中の袋は元に戻した。  ――真木(まき)さんは、こっちの方が効くって言ってたし。  スタジオで声優仲間が話していた内容を思い返しながら、はちみつ色の袋の隣に並んでいる無骨な筆文字が躍るパッケージをカゴに入れる。 「よし」  鼻まで覆うマスクの下、誰にともなく独り言ちると総菜コーナーを冷やかしてからレジに向かった。 「ポイントカードお持ちですかー」  レジカウンターの中から恰幅の良い女性が機械的に問いかける。ピッ、ピッとバーコードを通す手はいちいち止まったりしない。悟もそれがわかっていて、この女性のレジに並んだのだ。世間話を持ちかけたり、労いの言葉をかけるわけではなかったが、名札を見ずとも名前がわかる。苗字だけだが。 「はい」  予め用意していたポイントカードを裏返して女性に手渡す。黒のマジックで書かれた「階上悟(はしかみさとる)」の文字の上に並ぶバーコードが、絶妙なタイミングでピッと音を立てた。 「二千円お預かりいたしまーす」  レジにお札が飲み込まれていくのには目もくれず、持参したエコバッグにカゴの中の商品を詰め替える。 「四百五十二円のお返しでーす」 「どうも」  ジャラジャラと音を立てて小銭が吐き出されるまでの間に、カゴの中身を空っぽにしておつりを受け取ると、ようやく悟のルーティンは終わる。あとは出かける前と何ら変わりのない自室に戻って、玄関の鍵をしっかり掛けてから「ただいま」と呟く。  もちろん応じる声はなかったけれど(あったらそっちの方が怖い)、律儀に一拍置いてから履き慣れたスニーカーを脱ぎ、ついでに身に纏っている衣服も全て脱ぎ捨てて、パンツ一丁で洗面所に直行する。これもまた悟の帰宅時のルーティンだった。喉を痛める原因になりそうなウイルスや埃を室内に持ち込まず、外から帰ったら即手洗いうがい。このルーティンのおかげで悟は今の職業に就いてから喉を痛めたことはおろか、風邪もひいたことはなかった。  五分間の滅菌消毒タイムを終えると、次は買って来た食材の整理だ。一人暮らしには贅沢に過ぎる三百五十リットルの冷蔵庫の野菜室を開けると、生姜と大根を取り出して、今取り出したのと全く同じものを野菜室につっこむ。ただし、こちらは買いたてほやほやの新品だが。それから同様にはちみつも入れ替えると、パンツ一枚でテレビの電源を入れた。 「えー……、『勇ゼロ』は見たから『霊殺』から」  迷うことなく録画一覧に飛ぶと、「霊殺奇譚」と書かれた欄に照準を合わせて再生する。程なくして流れ始めたのは、色鮮やかなアニメーションとヒットチャートの上位に居座り続けているオープニング主題歌だった。オープニングが終わるまでの八十九秒間で、大根を角切りにし、生姜をすりおろす。それらをタッパーに入れてはちみつをたっぷりかけたら、蓋をして冷蔵庫に入れる。隣に並んでいる同じ規格のタッパーには、はちみつ大根シロップがちょうど残り一食分入っている。それを取り出すと耐熱性のタッパーに直接、ポットからお湯を注いでようやくソファに腰かけた。 『俺は……俺たちは、負けないっ!』 「くそ、ちょっとオーバーした」  テレビから流れてくる音声は先週も聞いたものではあったが、Aパートの開始に間に合わなかったのは悔やまれる。悟は自分の不手際に悪態を吐きつつも、早戻しボタンを押すことはしなかった。いつの間にか習慣化してしまったルーティンは色々あるけれど、潔癖というわけではない。 『無理だよ……こんなの、勝てるわけない』  テレビの中では気色ばんだ主人公の少年に、仲間の気弱な少年が諦観と恐れの混じった情けない声をかけている。それを眺めながらはちみつに漬け込まれてすっかり歯ごたえのなくなってしまった大根を、もにゅもにゅと咀嚼する。美味しいわけではなかったが、ただ喉に良いからという理由だけで摂取しているので味には頓着していない。 『そんなのやってみないとわからないだろう!』 『やってみてだめだったってわかっても、その時、俺たち死んじゃってるよね⁉』  「霊殺奇譚」は日本人なら誰もが一度は名前を聞いたことがある週刊少年漫画雑誌で連載中のバトル漫画だ。元々根強い人気があった漫画が連載五年目にしてようやくアニメ化され、間違いなく今クールの注目作品だ。悟も原作の漫画を読んでおり、アニメを心待ちにしていたファンの一人だった。 「やっぱ真木さん、演技うまいなー」  主人公の晴太(はれた)とテンポよく掛け合いをしている気弱な少年雨彦(あめひこ)は、気弱でありながらもツッコミ役も兼ねており緩急をつけた演技が求められる。人気漫画のアニメ化ということもあって発表直後はネット上でも賛否両論が飛び交っていたが、雨彦のキャラクターボイスを担当するのが人気も実力もあり、声優としては中堅ポジションにいる真木要(まきかなめ)だと発表された際には好意的な反応が多く見られた。悟も、もちろん好意的な反応を示した人間の一人だ。  だって、声優デビューしてからの三年間、事務所HPのプロフィールをはじめ、ありがたいことに受けさせてもらった数々のインタビューでは、必ず憧れの先輩に「真木要」と回答してきたのだ。 『いぃーやぁーだぁー! 俺はぜぇーったい戦わねえからなっ‼』  今まさにその憧れの先輩はこれでもかというくらいガラガラに掠れた声で、小憎たらしいクズっぷりを発揮しているが。 「真木さん最近、悪役やんなくなっちゃったな」  テレビラックの上、画面の邪魔にならない位置に並んでいるフィギュアにちら、と視線を移す。  まだ悟が毎日毎日、三時間かけて会社と家を往復していた頃。「霊殺奇譚」と同じ雑誌で連載中の、国民的人気を誇る海賊漫画「コルセアーズ」が何度目かのアニメ映画になった。テレビCMはもちろん、街頭ビジョンやネット広告で何度も何度も繰り返し流れている映像は、はじめこそ悟にとってただの日常に過ぎなかった。 『不変は退化だ』  しかしそんな日常の中で、なぜかそのセリフだけが耳にこびりついて離れなかった。  声を張っているわけでも反対に極端に落としているわけでもない、至って普通の声。それなのにCMの中盤で流れるその声だけが毎回鼓膜に引っかかって、はっきりと悟の聴覚を刺激した。  そのままスルーしても良かったはずなのに結局、悟は十数年ぶりにアニメ映画の前売り券を自分で購入した。声優になった今となっては、アニメ映画のチケットを購入することなど日常茶飯事なので何の感情も湧かないが、まだサラリーマンだった当時はネット画面で購入ボタンを押すまでに、一時間以上葛藤したことを覚えている。そんな葛藤に揉みくちゃにされながら、公開初日に映画館に赴き、そこではじめて真木要に出会った。 『どうしてわからない? おまえだって力を求めているんだろう?』  真木が演じていたのは主人公たちに対峙する敵役のフレッドというキャラクターだった。悪に染まっているはずなのにその声音は理性的で、ともすればがむしゃらに戦う主人公たちよりもフレッドの方が正しいのではないかと思わせるものだった。  そんな真木の演技に悟が一人、思いを馳せているとリビングから遠く離れた場所で軽快な電子音が鳴り響いた。 「あ、スマホ忘れてた」  そもそも衣服も玄関に脱ぎ捨てっぱなしだ。リモコンの一時停止ボタンを押すと、ソファの背もたれをひょいと跨いでショートカットする。慌てて拾い上げたズボンのポケットから取り出したスマートフォンの画面には「フラプラ 小川マネージャー」の文字。 「はい、階上です」 『お疲れ様です! フラットプラスの小川です』 「お疲れ様です」  画面に表示されていたので名乗らずとも発信者はわかっていたが、職業柄か受話口の相手はご丁寧に悟が所属している声優事務所の名前付きで名乗った。 『階上くん、悪いんだけど明日の十七時に事務所まで来れる?』  脱ぎ捨てっぱなしの衣服はそのままで、リビングに戻る。壁に掛けたカレンダーの明日の欄には「朝十(あさじゅう)はぴコネ」と記載されている。「はぴコネ」は悟がレギュラー出演しているアイドルアニメ「はっぴーコネクション」の略称だ。 「はい、大丈夫です」 『ごめんねー。詳しくは明日話すけど、階上くんにとっても悪い話じゃないからさ!』 「はあ」  小川は電話越しでもそれとわかる、人好きのする声音で軽快に告げると『それじゃ、また明日』と一方的に電話を切った。そこまで言ったなら最後まで言ってくれ。中途半端にもたらされたマネージャーからの情報に、そう思わないでもなかったけれど、どうせ数時間後にはわかる話だ。 「つづきつづき」  誰に聞かせるでもない言葉は意味を無視した音になって、一人暮らしの部屋を寂しく埋めた。

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