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「おはようございます」
翌朝。悟は朝のルーティンである発声練習をこなしてから、九時十分には「はぴコネ」の収録現場に到着した。
「おはよー、早いね階上くん」
「もしかして一番乗りでした?」
スタジオ前のロビーでスタッフの一人から声を掛けられたので、世間話がてら愛想を振りまく。
「残念、一番は俺でした」
「まっ、真木さん⁉ おはようございますっ!」
背後から朝一とは思えない滑らかな声で話しかけられて、振り向くよりも先に名前を呼ぶ。
「おはよ」
みっともなくひっくり返りそうになる悟の声とは対照的に、真木は落ち着いていた。そのうえ、緩やかに口角を持ち上げた笑顔まで付けてくれる。
「真木ちゃんもうベテランなんだから、あんまり早く来ると新人くんが委縮しちゃうって言ったじゃん」
「もー、ベテランって言うのやめてくださいってば」
音響監督が悟たちの横を通り過ぎがてら、軽口を真木に投げる。
「そんな年じゃないですし。悟とそんなに変わんないですよ」
悟、と当たり前のように真木に名前を呼ばれるといまだにそわそわしてしまう。
「え、階上くんいくつよ?」
そのまま通り過ぎようとしていた音響監督の篠原 が、真木の言葉にぴたりと足を止めた。
「二十九です」
「ほらー、俺と二個しか変わんない」
ふふん、と悟たちが演じているアニメのキャラクターのように真木が得意気に胸をそらせる。
「ま、声優は年齢じゃなくて芸歴だから」
「悟は芸歴何年?」
「三年です」
「ほらー、まだ新人賞の資格あり。で、真木ちゃんおまえ芸歴何年か言ってみ?」
「……十三年」
さっきまでの威勢の良さが嘘のように、ぽつりと真木が呟く。
「階上くん、ネームドキャラ何回演 った?」
「はぴコネがはじめてです」
篠原の問いに悟が素直に応じると「うぐ……」と喉に詰まるような声が隣から漏れた。
「はい、真木ちゃん」
「あーもーっ! 数えらんないくらいやりましたっ! 今年は主役一本やりましたっ‼」
自棄になった真木の声がロビーに響き渡る。よく通る真木の声は悟にもまっすぐに刺さった。「はぴコネ」でようやく共演者という土俵に上がれたとは言え、改めて自分と真木の格の違いを突き付けられてしまう。元より張り合うつもりはないけれど、せめていつか胸を張って隣に立ちたい。
「わかればよろしい。良い役ばかりのベテラン声優、真木要くん」
篠原の口調は多分にからかいの色を含んでいたが、一秒にも満たない一瞬、真木の表情が固まったのを悟は見逃さなかった。
「真木さんだって悪役やったことありますよ」
脊髄の反射で開いた唇から漏れた自分の声音の冷たさに「あ、やべ」と思った時には遅かった。
「はあ」
吐き出された篠原のため息に、フォローするべきか否かで悩んで、悟が選んだのは後者だった。自分は間違ったことを言っていない、と強く出られるだけの気概があったからではない。
「篠原さんすみません。悟、俺のこと好き過ぎてその手の冗談通じないんで」
悟が悩んでいる間に、真木が話し出してしまっただけだ。
「や、大丈夫。俺も冗談とは言えパワハラすれすれだったし」
篠原は真木のフォローに「はは」と軽く笑って見せる。
「つか黒歴史すぎて『コルセアーズ』のこと、真木の経歴にカウントしてなかったわ」
「そのまま一生、なかったことにしてください。俺は忘れませんけど」
「アホ、俺だって忘れられんわ。おまえの演技にOK出したの俺だっつの」
「へ……?」
自分のせいで空気を凍らせかけたということも相俟って、二人の会話が飲み込めずにいた悟は開けた口の形そのままの間抜けな声を漏らした。
「劇場版『コルセアーズ』の音響監督、篠原さんだったんだよ」
「えっ⁉ そうだったんですか⁉」
「そうそう、おまえほんっと真木以外に興味ねえんだな」
「はい。いいえ、すみません」
思わずこくりと頷いてから、すぐにぶんぶんと頭を振る。忙しない悟の挙動に「どっちだよ」とつっこみを入れつつも、篠原は「まあいいや」と笑った。
「今の真木ちゃんだったら主役の演技食っちゃうような悪役やっても主役に睨まれることないだろうし」
「ちょっと篠原さん! 余計なこと言わないで」
「言われたくなかったら、もうちょい遅くスタジオ来いや」
気心知れた気安さで吐き出すと、篠原は長いこと止めていた足を動かしてコントロールルームに消えた。
「あの……フォローしてもらってありがとうございます」
「すみません」と迷ったけれど、伝えたい方を優先した。真木は「ほんとだよー」と軽口で応じてくれた。
「相手、篠原さんだったからよかったけどさ。一瞬、肝冷えたわ」
「すみません。でも俺、真木さんの『コルセアーズ』の演技、大好きで。あれ聞いて声優目指そうって思って」
「知ってるよ」
口調だけ呆れた風を装ってはいたものの、真木の声は柔らかい。
「何回聞かされたと思ってんの。『はぴコネ』で顔合わせした時から同じ話ばっかり」
「う……」
真木の指摘に言い返す言葉が見つからない。だって実際、その通りだから。
「ま、俺もそんだけ好かれてたら悪い気はしないけどね」
ぽん、と軽く悟の肩を叩くと真木は「今日も悟に幻滅されないようにお仕事頑張りますかー」と言ってスタジオに入っていく。
「……っし、俺もがんばろ」
悟も真木の後を追いかけた。
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