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「おはようございます」  つい数時間前にしたのと全く同じ挨拶を午後四時にする。はじめこそ違和感で声が萎んでいたけれど、何度かスタジオに通っている内に慣れてしまうのだから人間の順応力はおそろしい。  「フラットプラス」と書かれた事務所のドアを開けて挨拶をした悟に、まばらにしか人がいないデスクからちらほらと「おはようございます」が返ってくる。「お疲れ様です」じゃないのはやはり順応力のせいだろうか。 「あ、階上くん。おはよー」 「おはようございます」 「こっちこっち」 「失礼します」  電話越しに聞く声の十倍は人懐こい声で、会議室から顔を出した小川が悟を手招きした。小川は年齢こそ悟より年下の二十七歳だったが、大学卒業後すぐに「フラプラ」に入社しているのでサラリーマンから声優に転職した悟よりも業界歴も社歴も長い。声優とマネージャーという立場ではあるけれど、悟は小川に敬語で応じて会議室に入った。 「階上さん、おはようございます」 「おはようございます」  悟が会議室のドアを閉めると小川の他にもう一人、デスクを担当している社員の中山が席に着いていた。悟の姿を見咎めると何やら操作をしていたノートパソコンから顔を上げて丁寧に頭を下げる。 「さっそくだけど本題です」  悟が席に着くか着かないかの内に小川が切り出した。 「階上くんにドラマCDのオファーが来ました」 「はあ」  小川がパチパチと拍手をしながら、隣に座っている中山をちらりと覗き見る。渋々、といった表情で彼も手を叩いた。しかし、拍手を受ける側の悟だけはどうにも納得がいかない。  ――ドラマCD? それなら今までにもやったことあるけど。  ドラマCD、と一口に言っても内容は多岐に渡る。コミックスやアニメDVDの初回限定版に封入される特典ものや、独自のストーリーがあるオリジナルのもの、キャラクターが聞き手に語り掛ける形式のシチュエーションCDなど様々だ。  悟は既にそのどれもを経験しており、ドラマCDの仕事が決まったからと言ってわざわざ事務所まで呼び出されることはなかった。  声優としてデビューしてから三年。デビュー直後であれば新しい仕事が決まった際に呼び出されることも珍しくはなかったが、なぜ今さら。そこまで考えてはた、と一つの可能性に思い至る。 「なんとなんと! 今回はBLCDでーす」  声高に宣言した小川に対して、悟はぴしりと表情を硬くした。 「びーえる……」 「そう! ボーイズラブ‼」  あえて平仮名の発音で努めて無感情に呟いた悟に、小川がご丁寧に正式名称を繰り出した。中山がタイミングを計ったかのように、スッとノートパソコンの画面を悟に向ける。モニタにはジャケット案の文字と共に、男性二人が今にもキスしそうな顔の近さで見つめ合っているラフが表示されている。 「しかも人気シリーズの『風呂めいと』だよー!」 「いや、ちょっと待ってください。俺、BLは……」  やりたくない。喉まで出かかった声をすんでのところで押し留める。 「はじめてだよね!」 「……はい」  悟の間を一体どう好意的に受け取ったのか、小川はにこにこと笑顔を崩さずに詰め寄った。  サラリーマンから声優に転職して四年。貯金を切り崩しながら一年間養成所に通い、その段階で既に二十五歳だった悟は新人声優としてデビューするにはギリギリの年齢だった。大半が高校卒業と同時に専門学校や養成所に入り、二十歳を待たずにデビューする人間も珍しくない昨今の業界事情を考えると、一度社会人を経験している悟には圧倒的にフレッシュさが足りなかった。年齢を理由に入所希望を断られることもザラではなかった悟を受け入れてくれた今の事務所には感謝してもし足りないくらいの恩義があったので、デビューからの三年間、どんな仕事でも文句を言わずに引き受けて来た。でも、BLは。 「階上さん、BLはNGじゃないんですか」  それまで黙って悟と小川のやりとりを聞いていた中山が助け船を出すかの如く口を開いた。 「えっと……」 「そもそも小川さん、階上さんにNG仕事の確認してるんですか?」  言い淀む悟の返事など端から待っていない様子で、中山が小川に視線を移す。 「え? してないよ。だって階上くん、何の仕事でもやだって言わないんだもん。エロゲもOKだったし」  それは濡れ場のない脇キャラだったからだ。濡れ場あり、それも男同士の。となったら当然話も、返事も変わる。具体的にはノーの方向に。 「それは今まで濡れ場なしの仕事ばかりだったからでしょう」 「え? そうなの?」  悟が思ったことを中山の声がなぞった。そんなこと思ってもみなかった、と言わんばかりの小川の問いかけに、こくりと頷きで応じる。 「えー! 階上くん、濡れ場NG⁉」 「できれば……」  限りなく、絶対に。声に出したら角が立ちそうな言葉は胸の中だけで呟く。 「そんなあ……」  小川はマネジメントする側よりも演者の方が向いていそうな表現力で、へなへなと机に突っ伏した。意気消沈、という言葉を人間の形にしたかのような小川の落ち込みぶりに、さすがに居た堪れなくなって悟が口を開きかける。 「でもでもっ! この情報を聞いたら階上くんもOKと言わずにはいられまいっ!」 「へ?」  がばりと勢いよく体を起こした小川に、悟は開いた口の形そのままの声を漏らした。 「今回の『風呂めいと』お相手はなんと、真木要さんですっ!」  最強の切り札を突きつけたと言わんばかりのドヤ顔で、小川が胸を張る。実際、悟にとってそのカードはこれ以上ないくらい効果てきめんだった。ロイヤルストレートフラッシュ、いや、ファイブカード。完膚なきまでの圧勝だ。 「真木さんって……、あの真木さん?」 「そう! 今期ナンバーワンアニメと呼び声の高い『霊殺奇譚』で雨彦を演じているあの真木さん!」  知っている。どころかついさっきまで一緒に仕事をしていた。 「他にも今期は『勇ゼロ』『はぴコネ』『ワーラバ』に出演、新規リリースされるソシャゲには必ず名前のあるあの真木さん!」  悟の反応に気を良くしたのか、はたまた売り込み仕事で培った営業力の賜物か、小川はつらつらと真木の経歴を並べ立てる。そして、そのどれもが悟にとっては既知の情報だった。 「階上くんがデビュー当時から一貫して『憧れの先輩』として名前を挙げているあの! 真木さん‼」  営業の域を超え、講談師も顔負けの名調子で謳い上げた小川に圧倒されている悟に代わって中山が割って入る。 「真木さんってリンプロですよね? リンプロさんってBL、NGだったと思うんですけど」  悟に見せていたノートパソコンの画面をいつの間にか自分に向けていた中山が、カタカタとキーボードを鳴らして表示した画面を小川に示した。おそらくは真木が所属している「リンプロ」こと「林プロダクション」の情報だろう。 「あー……まあ。明言はしてないけどそうね」 「あ、そうですよ! それに真木さん自身、BLはやらないって前に雑誌で」  話の腰を折られて勢いを失った小川に、悟も正気を取り戻して付け加える。 「いや、真木さんはBLやってますよ」 「……え?」  つい先ほど「リンプロはBL、NG」と言っていた張本人の中山がその舌の根も乾かない内に、しれっと一八〇度真逆のことを言ってのける。 「ちょ、中山さーん……」 「あれ? もしかして階上さん知らなかったんですか?」 「僕からは伝えたことないんで、この反応ってことは……おそらく」 「尊敬してるって言ってたんで、てっきり知ってるもんだと思ってました」  いまだに中山の言葉を咀嚼しきれていない悟のことはおいてけぼりで、小川と中山がコソコソと(しかしその声は悟にもしっかりと届いているのだが)やり合っている。中山も悟と同じく転職組なので年齢は小川よりも上だったが、この中で一番経歴の長い小川には敬語だった。いや、今はそんなことはどうでもいい。 「真木さんがBLやってるってどういうことですか」  一瞬でカラカラに干上がった喉に貼り付こうとする声を、やっとの思いで引っぺがして絞り出した。悟の疑問にどっちが答えるのか、小川と中山の間でお互いに(おまえが言え)とアイコンタクトが交わされたけれど、結局は「はあ」とため息を吐いてから小川が口を開く。 「階上くん、裏名義のことは知ってるよね?」 「はい。エロゲの仕事やる時に使うか聞かれました」 「ああ、そういやそうだったっけ」 「真木さんも裏名でBLに出てるんですか?」 「うん、そう。中山さんも言ってた通り『リンプロ』は表向き、BL仕事は受けないってスタンスだから」 「特に真木さんの場合、表でご活躍されてるので『抜き』の仕事はイメージの問題もあるでしょうね」  さらりと会話に入ってきた中山が、またしても悟にPCの画面を見せてくれた。画面には「間林陽(まはやしよう)」という聞いたことのない名前と出演作品がずらりと並んでいる。 「こんなに……」  PC画面の半分ほどを埋めている出演作品一覧に愕然として、漏れた声は尻すぼみに消えていった。 「調べれば一般人でも辿り着ける情報ですけどね」 「ちょっと、中山さん! 誰がフォローすると思ってるんですか!」 「所属タレントのメンタルケアもマネージャーの仕事ですよね」 「そうだけどー! そうなんだけどーっ!」  きゃんきゃんと吠える小川のことなど、子犬がじゃれついているようなものだと言わんばかりに中山がさらりとあしらう。 「……真木さんは、BLやらないしやる予定もないって雑誌のインタビューで言ってたんで、俺、裏名とか調べようと思ったことすらなくて」 「それは……『真木要』という商品をどう売り出そうかという事務所のイメージ戦略もありますから」  ぽそぽそと吐き出した悟の声は自分でも驚くほど、覇気がなかった。きっと収録だったらリテイクを食らっているに違いない。  そんな悟の様子に多少なりとも罪悪感を刺激された中山がフォローにしては愛想のない事実を述べる。 「裏切られた、と思った?」 「え……」 「真木さんはBLやらないって言ってたのに、裏名でやってるなんてうそつきだって。裏切りだって、階上くんは思った?」  普段の人懐こい小川からは想像もつかないほど大人びた声で静かに問われて、悟はどう答えるのが正解なのか迷った。裏切られた、とまでは思わない。でも、たしかにがっかりしている自分がいる。じゃあ、このがっかりの理由は、一体なんだろう。 「思いません」 「それなら、とりあえず真木さんが裏名で出演してるCD何本か聞いてみたら?」 「うちの五十嵐(いがらし)さんと出演したのは資料室にあるはずなので、持ってきますね」 「うん、お願い」  小川が言い終わるか終わらないかの内に中山は会議室から出て行ってしまった。 「今回、真木さんは初めて裏名じゃなくて『真木要』としてBLCDに出るんだって」 「……どうしてですか」 「さあ? そこまでは僕も聞いてないからわからない」 「そう、ですか」 「でもね、あの『真木要』が表の名義で初めて出演するBLCDの相手役、なんてどう転んでも好条件の仕事であることは間違いない」  にこり、と営業スマイルを浮かべると小川は敏腕マネージャーの目で悟を見据えた。 「その初めての相手が階上くんになるのか、それとも他の誰かになるのか。決定権は階上くんが握ってる」  丁寧に一呼吸置いてから「今はまだ、ね」と付け加えた小川はやはり、マネージャーよりも演者に向いていると思えてならない。 「お待たせしました」 「ありがとー。それじゃ階上くん、返事は二、三日……っと思ったけど今日が木曜だから、月曜には返事ちょーだい」  中山が数枚のCDを持って会議室に戻って来ると小川はくるりと表情を変えて、いつもの少しだけ馴れ馴れしくて隙のある口調で一方的に言い残して去ってしまった。 「あ、CDありがとうございます」 「……階上さんは社会人経験があるのでわざわざ言うまでもないとは思いますが」  中山が持って来てくれたCDを受け取ろうとして悟は手を伸ばしたが、中山は反対にその手を引っ込めた。そうして丁寧に、と言うよりは慇懃無礼に前置きをしてから続けた。 「小川さんはああ言ってましたけど、もしも断るつもりなら今週中に返事をお願いします」 「……わかりました」  断る時ほど早めに返答を、というのは悟自身、サラリーマン時代に何度も感じたことだった。断りの連絡が速ければその分だけ、他の候補者を探す時間に充てられる。 「封筒、必要なら取って来ますよ」 「あ、いえ大丈夫です」  悟の返事に納得したのか、中山は悟にCDを手渡すと気遣うような素振りを見せた。量の多さもさることながら、どちらかと言うとジャケットの過激さから発せられた気遣いかも知れない。 「……これは真木さんに限った話じゃないですけど」 「はい?」 「濡れ場……それもBLはたしかに恥ずかしかったり抵抗感があるかも知れませんが、役者としては経験値が上がると仰っている方は多いです」  中山は小川とは違い(むしろ正反対と言ってもいい)平素から仏頂面で、お堅い印象だがどうやらこれは、うっかり真木の裏名のことを悟にばらしてしまったフォローのつもりらしい。ということくらいは悟にもわかった。 「ありがとうございます」 「いえ、自分は所詮ただのデスクなので。インターネットで拾える程度の情報しか知りません」  小川に「タレントのケアはマネージャーの仕事だ」と冷たく言っていたにも関わらず、落ち込んでいる悟を気にかけてくれた中山の不器用な優しさに、もう一度悟は「ありがとうございます」と頭を下げた。

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