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「ただいまー」  なんだかドッと疲れた。実際のところ悟が会議室にいた時間は三十分にも満たなかった。けれど、体感では三時間かそれ以上拘束された時と同じくらいの疲労感だ。  「憧れの先輩の裏名でのBL出演」という大っぴらには出来ない新事実に、ぼこぼこに打ちのめされた悟は帰宅時のルーティンも無視して一直線にリビングのソファに沈み込んだ。 「明日のダンスレッスン、行きたくねー」  元より話しかける相手なんていない部屋の中で独り言ちる。しばらくはぼんやりとソファに体が沈んでいくのに身を任せていたが、観念して壁に掛かっているカレンダーに視線を向けた。明日の欄には悟の字で「はぴコネダンスレッスン」と間違いなく書かれている。予定が変わる気配はない。 「はあー……」  地球の裏側まで届きそうなほど深いため息を吐き出すと、「よっ」と勢いを付けて上体を起こした。そのままぐいっと腰を曲げて、フローリングの上に置いたままにしていた鞄の中からプラスチックのケースを取り出す。 「せっかく借りたし、一枚くらいは聞かないと」  普段からルーティンがたくさんある生活をしているだけあってこう、と決めてからの悟の行動は迅速だった。テキパキとPCを起動してCDをセットすると迷うことなく再生ボタンを押した。わあ、と作り物の歓声が流れ出す。 『九回裏ツーアウト満塁、フルカウント』  瞬間、作り物の歓声が球場の声援になった。たった一言で、ただのSEに説得力が生まれ、一度は目にしたことのある情景が呼び起こされる。 『これ以上ないくらい、逆転勝利へのお膳立ては整っている……相手チームの』  聞き覚えがある、あり過ぎるくらいにある真木の声だ。 「……本当に、真木さんなんだ」  ジャケットの裏に記された「間林陽」という文字の並びが、悟の鼓膜にこびり付いた真木の声と結ばれていく。 『……っく、ひっく』 『泣くなよ、友希(ゆうき)』  中山が言っていた通り悟の事務所の先輩である五十嵐が、真木の演じる友希に声をかける。五十嵐も裏名で出演していたが、一声聞いたらすぐにわかった。 『俺が……俺が最後に打たれたせいで……』 『それは、サイン出した俺にも責任があるから』  高校球児同士のBLという設定も手伝ってか、ここまではスポーツもののドラマCDと大差がない。 『でもっ!』 『あーもーっ、泣くなって!』 『俺が泣いてようが笑ってようが、英司(えいじ)には関係ないだろっ!』  はじめて聞くにはちょうどいいチョイスだったな、と悟が胸を撫で下ろしている間にも物語は進んでいく。 『あるよ』  不意に五十嵐の声音が変わった。ここから物語が動く、という予感を含んだ声に悟の体も強張った。 『……え?』 『三年間ずっと……一番、近くでお前のこと見てきたんだ』  ドラマCDには当然ながら映像がない。台本は存在しているので、キャラクターの動きを説明するト書きはあるが今、英司がどんな表情をしているのかを視覚に訴えることは不可能だ。それなのに、五十嵐のその一言で悟には英司が胸に秘めてきた恋心が伝わった。 『……っ』 『友希の笑った顔が……好きなんだ。勝って、俺が勝たせて、俺が好きな友希の最高の笑顔を見たかった』  言いたくて、言えなかった英司の三年間の苦しみが、絞り出すような五十嵐の演技でリアルになる。 『……ねえ、英司。こっち見て』  涙の中にふわりと花が咲くような慈しみの声。真木の声は、悟が本格的に声優を志す前から聞いているので、この声には覚えがあった。少女漫画原作のアニメに、ヒーロー役で出演した時の演技に似ている。 『最高の笑顔、とはいかないかもしれないけど……これじゃだめ?』  照れくささの中に恥じらいと、ほんの少しだけ覗いた親愛とは異なる好意の色。絶妙な加減で調整された甘い真木の声音に、悟はマウスに添えたままになっていた右手にぎゅっと力を込めた。 『……だめじゃない。もっと、近くでよく見せて』  五十嵐の声に、それまでよりも明確に熱が灯った。 『ん……』  たった一言、いや一言にも満たない一音。五十嵐に応じるように温度の上がった真木の声を聞いた途端、悟は理解した。 「俺が知らない……真木さんの声だ」  事務所の会議室で、小川に問われて悟が答えられなかった憂いの正体を。  それはBLに出ないと言っていた真木が裏名で出演していることでも、その裏名を調べれば一般人でも辿り着ける情報だと中山に冷たくあしらわれたことでもない。  自分の知らない真木の声がある。それが、そのことだけが、ただショックだった。 『友希っ……』 『んっ、英司ぃ』  ちゅっちゅっと、互いの唇を啄むような濡れたキスの音が両耳から悟の鼓膜を震わせる。  脇役ではあったけれど悟自身エロゲに出演したことがあるので、どうやってリップ音を立てているのかは知っている。手の甲に唇で吸い付いたり、影絵の狐のように親指、人差し指、中指をくっつけたものを人の唇に見立ててキスしたりと様々だ。いずれにしても実際にしているわけじゃない、というのは身を持って学んだはずなのに、音だけで構成された世界ではひたすらに生々しい。 『んぅ……っふ』  唾液が絡まり合うようなキスの合間に、はちみつみたいに甘く蕩けた声を真木が漏らす。 『好きだよ、友希』 『俺もっ……英司が好きっ、大好きっ!』  疑う余地なんて一ミリもないと思わせるだけの説得力が、真木の声にはあった。好きで好きでたまらない。言葉以上に、雄弁に真木の声が訴えている。  カチャカチャと、金属同士が触れ合うSEがしてその間も二人は耐えずリップ音を立てている。どちらか一方だけが、ということはなく重なって音だけのキスが成立していた。 『三年間ずっと……こうしたかった』 『あっ、待って英司、汗かいてるからっ……ひぅっ!』  ぴちゃ、とこれはSEだとわかる水の音に合わせて真木の声が猥らに跳ねた。実際は真木の発した声に合わせて後からSEを入れているのだが、真木の演技は制作の過程を感じさせない。中山が言っていた「役者としての経験値が上がる」という言葉が、実感を持って悟に押し寄せる。 『大丈夫、俺も汗だくだし』 『そっ、いう……問題じゃ、ぁんっ、ないっ』  カサカサ、ぴちゃぴちゃという効果音に真木の喘ぎ声が混じる。鼻にかかったような高い声は、今までよりも直接的に悟の聴覚を犯した。 『やぁっ……、あっ!』  舌足らずに縺れた吐息が、三半規管を容赦なく揺さぶった。そわそわと耳管をくすぐりながら滑り落ちて、血液の温度を上げる。  ――知らない、知らない。真木さんのこんな声、知らないっ!  二人分の熱い吐息と甘い声に、叫び出しそうになるのを頭を振って堪える。実際に目の前で二人が演じているわけでもないのに、悟は声を上げることが出来なかった。 『んぅ……、英司ぃ』 『友希っ、はあっ……』  だって、声を出したら自分が部外者だということを否応なしに突き付けられてしまう。鼓膜を外側から揺らす二人の声は、内側から発せられる悟の声とは絶対に交わることはない。 『あっ! えーじっ、ちくびっ……だめぇ』  台詞とは裏腹にねだるような真木のぐずぐずに蕩けた声を聞きながら、ちり、と胸の中心が焼けるように痛む。  ――ようやく真木さんと共演出来て、同じ土俵に上がれた。なんて思い上がりじゃん。  付け足すなら真木の「表向き」の演技だけを聞いて、憧れているだの尊敬しているだのと臆面もなく口にしていたことも。 『うっ……、あっ、ん』  「真木要」としては使う必要のない高さで、真木が鳴いた。猥らではしたなくて、とびきり甘いその声に心臓よりももっと奥がきゅうっと締め付けられる。  ――こんな真木さんの声、知らなかった。  でも、と思う。でも、今はもう知っている。昼の熱さとは違う、体温を孕んだ真木の演技を。そして、部外者ではなく真木と同じ側に立てる権利を悟は持っている。 「今は、まだ」  小川に言われた言葉を自分の声でなぞる。イヤホンを乱暴に外すと、フローリングの上に置き去りにしていた鞄からスマホを取り出した。逸る指先を宥めて、着信履歴から最短ルートを辿る。 『はい、フラットプラスの小川です』 「俺、やります」  名乗らなくては、と思ったのは第一声を発してからだった。 『え? 階上くん、やるって何を?』  電話の向こう側で小川が珍しく狼狽えている。けれど、悟のことは正しく認識しているようなので、発信者表示という文明の利器に甘えて悟はそのまま先を続けた。 「やりたいです! 真木さんとBL‼」 『わかりました。でも、一つだけ確認させてください』  戸惑いを前のめりにスルーされたにも関わらず、小川の声は落ち着いていた。 『階上くんは本名で活動してるよね?』 「はい」  何を今さら。思ったけれど小川がただの確認で聞いているわけでないことは悟にもわかった。 『てっきり断られると思ってたからあの時は言わなかったんだけど。真木さんが表の名前で出る以上、階上くんも裏名は使えない。それでも、出たい?』  小川が発した疑問符は問いかけの形をしていなかった。「断るなら今のうちだ」と言っているのと同義だ。 「出たいです」  すう、と息を吸ってから、はっきりと発音する。人に伝えるための発声は、無意識では出来ない。 『わかった。それじゃあ先方にはオファーを受けるってことで返事しておくね』  悟の返事を聞いて小川はようやく、普段の人懐こさを取り戻した。 『収録は真木さんのスケジュール次第だから、決まったらまた連絡します』 「わかりました」  通話を終えてPCの前に戻ると、英司と友希はいつの間にかキャッチボールを始めていた。この短時間で一体何があったんだよ。

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