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第22話 残雪①
凍えるほど寒い朝だった。毛布を被っているのに手足が冷えてしょうがなく、隣で眠る桐葉の体温を手探りで追い求めた。しかしどういうわけか布団の中は空っぽである。指先は虚しくシーツの波を掻く。徐々に意識が覚醒していく。隙間風なんてかわいい名前では呼べないような強風が吹き込み、無数の鋭い針のごとく肌を突き刺した。
ゆるりとまぶたを持ち上げる。穏やかな脆い陽射しが大きく開いた窓から差し込んでいた。カーテンがフレア状に膨らんだ向こう側、ベランダに人影。上質な氷よりも透明に澄んだ光に包まれて、その人は欄干をよじ登る。裸足のままで、白いパジャマの裾が風にはためいた。
目の前が真っ白に、何も考えられなくなったが、体は意思と無関係に動くのだ。俺は弾丸のごとく駆け出した。俺が床を蹴るのと同時に、その人も欄干を蹴った。加速したまま窓を飛び出し、柵から身を乗り出して腕を伸ばす。勢い余って一緒に落ちてしまいそうだった。
すんでのところで、ぎりぎり手首の辺りを掴む。だが本当にぎりぎりだ。俺の腕を掴み返してくれないからずるずると重力に引っ張られる。死に物狂いで引き揚げようとする。砕けそうなほど歯を食い縛る。肩が嫌な音を立てた。
一体なぜ。どうしてこうなったんだ。俺は何か間違えたろうか。致命的なミスでも犯したか。昨晩は至って普通だった。普段通りに、好きだと言ってキスをした。互いの温度を確かめるように抱き合った。くっついて寝るのはいまだに嫌がるけど、時々その日の気分によっては許してくれるようになった。昨晩も抱き枕代わりに抱いて寝たのだ。
這い上がれと伝えたいのに声が出ない。うなり声のような不明瞭な音が漏れるだけだ。自身を支える左手も、伸ばしきった右手ももう限界だった。腕が、指が、千切れ飛ぶ。
さらりと黒髪が風になびいて白い頬を撫でた。
*
おれの母は東京で水商売をやっていた。芸は売っても色は売らない、なんて高尚な信念を持った女ではなかった。むしろ頭も股もゆるゆるでだらしない馬鹿な女だったのだろうと、大人になった今そう思う。
ある時、客の一人だった男に恋をした。当時の母よりも少し年上の男だ。男が本心でどう思っていたかは知らないが、少なくとも母は男に首っ丈だった。本気の恋だったのだ。そうして生まれたのがこのおれだ。母は男の口から出まかせの愛の言葉を信じた。子を成せば自分と一緒になってくれると思ったのだろう。
しかし現実は非情である。男には妻があり、しかも昨年息子が生まれたばかりだった。事実を知った母の絶望感たるや、想像を絶するものであったろう。男は「認知する」と口では言うものの一向にその気配はなく、母への連絡もいつのまにか途絶えた。しかし生んでしまったものは仕方ないので、母はたった一人で十四年間おれを育てたのだ。
未婚の、しかも水商売の女が一人で子を育てるのは難しかった。母は昼頃家を出て深夜まで、あるいは早朝まで帰ってこない。カーテンも玄関も閉めっぱなしで、室内は昼間でも薄暗い。おれは常に腹を空かしていたから、母が気まぐれに買ってくるキャンディを大切に取って置いて何回かに分けて舐めた。飴がなくなれば氷を舐めてやり過ごした。
しょっちゅう殴られていたから体も顔も痣だらけで、風呂もまともに入れなかったから年中不潔だった。伸びた爪が肉を抉り、指先が膿んでいた。アパートの部屋は狭いくせにゴミで溢れかえり、流し台には腐ったキャベツが転がっていた。酷い臭いが充満し、湿度ばかりが高く、壁と床の隙間にはカビが生えていた。
年に一度、母は思い出したように部屋を片付け、張り切って料理を作る。二人じゃ食べ切れない量を作る。おかずだけでなく、クッキーを焼いたりケーキを作ったりする。こっちも大量で、部屋が甘い香りで満たされる。おれは待ちきれなくなって手を出すが、母はおれの手を叩いてたしなめる。
「だめよ、悠ちゃん。お父さんがお帰りになってからにしましょうね」
お父さんなんていないじゃないかと幼心に思ったが、母を傷付けまいと我慢した。年に一度訪れるこの日、母は朝から晩まで機嫌が良くて、おれをたっぷりかわいがる。頭を撫で、頬ずりをし、キスをし、抱きしめる。母が言うには、おれは父親によく似ているらしい。目元と髪質がそっくりなのだそうだ。
「お父さんは、今日は遅いんじゃないの」
おれが言うと母は困ったように笑って、先におやつだけ食わせてくれた。母の作った菓子の安っぽい砂糖とクリームとバターの味を、おれは生涯忘れることができない。
母はいつまでも父を待っていた。窓を開けて遠くを眺め、室内をうろうろと徘徊し、繰り返し化粧を直す。そうしているうちに夜になり、朝になる。昇る太陽を見てようやく、父は決して帰らないと気づくのだ。
「どうしてあの人は戻ってこないの」
正気に返った母は狂ったようにおれをぶつ。
「お前のせいよ! お前さえいなければ、こんなことにはならなかったのに……!」
幼児相手に全力のビンタを食らわすもんだからおれは何度も死ぬかと思ったけれど、母の手が真っ赤に腫れているのを見て「この痛みは母の痛みでもあるのだな」と血に塗れながらぼんやり考えていた。
毎回殴られて終わるのだが、おれはいつもこの日が待ち遠しかった。母の手料理が食べられるのが嬉しかった。母がおれに話しかけ、おれの声を聞いてくれるのが嬉しかった。最終的に暴力に落ち着くとしても、母に構ってもらえるのが嬉しかった。
しかし何事にも必ず終わりが来る。中二の修了式の日、通常より早く帰宅すると母が宙に浮いていた。正確には、かつて母だった物体だ。それはもう母ではない。母に似た何か別のものだ。二度と喋らず、涙を流さず、おれをぶつこともない、ただの物体だ。
天井にぶら下がったままの母と共に、おれは一晩を明かした。この十四年間、良い思い出も悪い思い出もたくさんあったけど、母が一人で全部持って行ってしまった。おれに黙って全て消えてしまった。
翌朝、薄明の頃になってようやく警察に通報した。その後数週間はとにかく忙しかった。忙しすぎて詳細を覚えていない。おれは祖母の家へ引き取られることになり、田舎の中学校へ転校することになっていた。
杉本のことは、嫌いだった。あいつは始めから嫌なやつだった。友達が多くて口数が多くて、おれに対してもしつこく接してきやがる。子供っぽい顔でアホみたいに笑い、実際勉強はできない馬鹿で、それでいて狡猾なところがあり、本人すら気づかない陰を背負っている男だった。おれは杉本のその陰の部分が気になり、惹かれてしまったのだ。
だけど杉本の特別になりたいわけではない……と思い込んでいた。どうせいつかきっと必ず終わりを迎えるのに、わざわざ杉本と特別な関係を結ぶ必要性がどこにあるだろう。人間なんてろくなもんじゃない。最終的に捨てるか捨てられるか、どうせおれが捨てられて終わるんだから。だって、今までもずっとそうだったろう?
中学の頃の戯れなんてほんの若気の至りに過ぎない。杉本が女と付き合うことになったのはちょうどいい区切りだった。これ以上杉本に心を侵食されるのはごめんだった。なのにまさか、九年も経ってからまたおれの前に姿を現すなんて。そうしてまた昔と同じように、おれの内側に潜り込んでくるなんて。悪夢でも見ているようだった。
セフレということにしておけば“終わり”が来た時のショックを軽減できるだろうと思ったが、なかなかどうして本心を偽るのは難しい。なるべく遠ざけたいと思うのに欲に抗えず容易く抱かれてしまい、行為後は憂鬱と倦怠感に悩まされた。
突き放しているのは自分なのに、突き放されれば傷付く。おれは杉本を大切にしていないのに、おれは杉本に大切にされたいと思う。
花火も夏祭りも、他でもないおれを誘ってくれればいいのにと苛立つ。あの女は誰なんだ、赤石とはどういう関係なんだと、問い詰めたい事柄が盛り沢山だ。しかしおれには何も言う権利はない。ただ黙って、杉本の求めるまま体を明け渡して、それでもまだそばにいてくれるのなら、それだけでおれは十分だったのだ。
あやふやで不安定な関係がおれには心地良かったし、杉本も同じだと思っていた。だからこそ、「好きだ」と告白されたのはまさに青天の霹靂だった。杉本がまさかそんな風に思っていたなんて予想だにしなかった。
衝撃のせいで冷静な判断を下せなかった。杉本の告白を真に受けずに、鼻で笑って素っ気なくあしらってしまえればよかった。それが普段のおれのはずだ。なのに、そうできなかった。なぜなら杉本のくれた言葉は、おれが絶えず追い求めてきた、身を焦がすほど欲しくて欲しくてたまらなかった言葉なのだから。
九年前から避け続けてきたというのに、とうとうおれは杉本と特別な関係になってしまった。そのことが杉本を少し変えた。明らかに優しくなった。事あるごとに好きだと言い、意味もなくキスをしたり触れてきたり、甘やかすようになった。おれ自身は以前と何ら変わらないのに、杉本だけ変わったのだ。
温厚で安穏としたぬるま湯のような愛情に浸かって、しかしこれが心地良いものなのかどうかおれにはわからなかった。もしかしたらこれが特別な愛というやつなのかもしれない。杉本は確実におれを特別扱いしている。だが、そんなものいくらもらってもおれには何も返せない。
望んでいたものを手に入れ、おれは確かに幸福だった。周りからもそう見えていたことだろう。しかしはっきり言うが、おれは不安に押し潰されそうだった。手に入れたものを失う日が必ず来ると知っているからだ。永遠なんて存在しないのだ。幸福の絶頂を越えたら後は下降していくばかりだ。
母は父に捨てられた。その母はおれを捨てて逝ってしまった。杉本もいつかおれに飽きておれを捨てるのではないか。そうでなくても、杉本が明日突然死なないという保証がどこにある。失う時を恐れて怯えながら暮らすくらいなら、いっそ自らの手で終わらせてやりたかった。
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