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第23話 残雪②

 目覚めた時、最初に見えたのは真っ白なカーテンだ。次に、真っ白なベッドに寝かされていることがわかった。わけのわからない管が腕や足に刺さっていて、酸素マスクを着けられている。鬱陶しいから外してしまいたいのに体が自由に動かない。鉄の甲冑を着けているかのように体が重い。どうしたらいいのかわからない。そもそもここはどこなんだ。   「桐葉!」    聞き馴染んだ声。初夏の風のように颯々とした声。   「おい、目ぇ覚めたのか? 俺のことわかるか?」    杉本。杉本だ。なんだ、泣いてるのか。相変わらず馬鹿だなぁ。  杉本はおれの手を握って大粒の涙をぼろぼろ零す。何か言っているけど何を言っているのかわからない。涙が滴って手を濡らした。乾いた肌に染み入るような温かい涙だった。    医者の話では、おれは四日ほど眠っていたそうだ。あちこち骨折して頭蓋骨にもひびが入ったが脳や内臓は無事だったらしい。   「どうして飛び降りたの?」    不要となったチューブは抜かれ、しかし必要なチューブは依然として繋がれたまま、問診が始まった。まだ若い、三十代前半くらいの医者がおれの主治医らしい。何科の先生なのだろう。脳外科か、整形外科か、もしかすると精神科かもしれない。   「聞いてますか、桐葉悠絃さん。自分の意思で飛び降りたんですよね。死んじゃいたいって思ったの」 「いえ……なんとなく、衝動的に……」 「死ぬつもりはなかった?」    死ぬつもりがなきゃ、四階から飛び降りたりしねぇだろ。でもおれは静かにうなずいた。   「最近、すごく嫌なことでもありました? 自暴自棄になっちゃったのかな」 「ないです。なんでこんなことしたのか、自分でもわかりません」 「今まで、自傷行為のようなことはしたことありますか?」 「ないです」    さらにいくつか質問され、最後に杉本のことを話してくれた。   「今日も来てた彼、ご家族ではないみたいだけど、毎日欠かさず会いに来てくれてたんですよ。集中治療室に入ってた時も、面会できないのに詳しく容体を聞きにきて。あなたのことをずっと気にかけてたんです」    愛されているんですね。という医師の言葉に、なぜだかわからないが涙が溢れた。ほんの一雫だった。死ねなくてよかったと心底思った。    医師が去って、入れ替わりで杉本が戻ってきた。泣き腫らした顔だが、今はもう落ち着いたらしい。微笑みすら浮かべてベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。さっきは気づかなかったが、杉本も右腕を三角巾で吊っている。   「あー、その……」  杉本は口籠りながら頭を掻く。気まずい空気が流れる。おれもそうだが、杉本も何を話せばいいのかわからないのだろう。   「面倒かけたな」  口火を切ったのはおれだ。杉本ははっとしたように顔を上げて、複雑な表情でおれを見る。怒っているのか泣きそうなのか、そんな表情だ。   「入院の世話とか、色々してくれたんだろ。お前がいなきゃ、おれはとっくに死んでたろうぜ」    吊っている右腕も、正確には肩だろうが、おれを引っ張り上げようと頑張った結果怪我したのだろう。その腕では日常生活を送るのも一苦労だろう。仕事もまともにできるまい。あそこの店長は話の通じるやつだから首にはされないだろうけど、当面の生活には困るのではなかろうか。   「悪かった。おれのせいだな」 「……馬鹿言うな。俺は、お前のせいだなんて思ってねぇよ」    聞いているこっちが苦しくなるような押し籠った声だった。   「お前が生きていてくれてよかった。ただそれだけだ」 「本当にそれだけかよ。聞きたいこと、他にもあんだろ。言ってみろよ」    杉本は開きかけた唇をきゅっと結び、うつむいてしばらく逡巡した。落ち着きなく、貧乏ゆすりをしたり拳を握ったりした後、言いにくそうに言葉を紡ぐ。   「俺は……俺はまた、間違えたのか?」    閻魔大王の裁きを受ける罪人のような調子で言うから、おれは思わず噴き出してしまった。杉本はぽかんと目を丸くする。   「わ、笑うなよ……」 「悪い。いや、お前がそんなこと言うなんて思わなくてな。お前には一切、非はないってのに」    杉本は目を見張ったまま息を呑んだ。   「んなの……信じられっかよ。だったらなんであんなこと」    そうだった。こいつはおれが飛び降りるところも墜ちていく瞬間も、おそらく墜落した現場も全部見ていたのだったな。そりゃショックも大きいだろうよ。   「杉本。おれはなァ、この三か月すごく幸せだったんだぜ」 「はぁ? だったらどうして」 「話のわからん野郎だな。幸せだったからこそだ」    あの日の朝。とろとろと夢現の状態で微睡んでいた。隣で眠る杉本の体温が伝わってくる。天然パーマを爆発させて呑気に眠りこけている。杉本のためにコーヒーを淹れてやろうと思い、起きて窓のカーテンを開いた。朝の光が眩しくて耐えられなかった。目を開けていられないくらい、目が潰れそうなくらい眩しかった。  きっとこれが幸福というやつなのだ。そしてきっと、今この時こそが最高潮なのだ。そう悟ったおれは迷いなく、幸福との心中を選んだ。   「中学卒業してからも、お前を忘れたことなんかねぇさ。でもお前はいつかいなくなるだろう? 昔そうしたみたいにな。楽しいままで終わりたくて自殺した中学生もいるらしいから、おれが今死んだって何もおかしなことはねぇ」 「……おかしいぜ」 「おかしくねぇ」 「おかしいぜ! だったら俺は、残された方はどうすりゃいいんだよ!」    杉本は躍起になって大声を上げるが、他の患者もいることを思い出したのか、すぐさまトーンを落とした。   「昔のことは悪かったと思ってる。俺だって後悔してたんだ。でもお前だって、どうしてあの時引き留めてくれなかったんだよ。どうして女と付き合うように仕向けたんだよ。あの頃の俺は今よりも馬鹿だったからさ、自分の気持ちがよくわかってなかったんだ」    杉本は頭を抱えて語り始めた。    独占欲も執着心も性欲と勘違いしていた。全部一緒くたにして考えていた。恋心がどんなものなのか知らなかった。ましてや自分が男を好きになるなんて微塵も思わなかった。  おれと別れて以降、何人かの女と付き合った。告白される度、黒髪でできればショートカットがいいなんて言って振ることも多かったが、好みに合わせてくれる殊勝な女もいた。そういう子と付き合っていた。   「俺も最近まで気づかなかったんだけど、無意識のうちにお前を重ねてたんだ。お前の代わりに女を抱いてたんだ」 「最低な男だな。そのうち刺されるぞ」 「なんとでも言え」    しかし毎回全く長続きせずに破局を迎えた。偽物は本物に勝てないらしい。   「俺だって、中学卒業してからお前を忘れたことなんかねぇよ。女と付き合っててもお前のことばっかり考えてた。お前ならこういう時どうするだろうって。セックス中もそれ以外でもだ。お前の掠れた低い喘ぎ声が好きだったんだ」    面映ゆいような腹立たしいような妙な気分になって、おれはすっかり押し黙る。   「お前の代わりなんて、世界中どこを探したって見つかりっこないんだ。二度とお前を捨てたりしないって、今ここで誓うよ」    左手を胸の高さに掲げ、掌をこちらに向ける。   「そんなもんをおれに信じろってのか」 「ああ、信じてほしい」 「何に誓うってんだ。神か仏か? 無神論者のくせに」 「お前に誓う」 「もしも誓いを破ったら?」 「お前を殺してやる」    突拍子もないことを言うやつだ。おれは笑ってしまったが、杉本は真剣な目をしている。   「どうしておれが殺されるんだよ」 「もしも俺がお前を手放したいと思う時が来たら、まぁそんな時は来ねぇわけだが、その時は何も言わずに俺がお前を殺す。そうしたらお前は、幸せなままで終われるだろ」    突拍子もないと思われた言葉の真意がわかり、図らずも口元が緩む。   「……はは、そりゃいいや」    杉本は馬鹿なようでいて――実際子供じみた側面も大いにあるが――時々信じられないくらい聡明だ。舌足らずだったおれの心持ちについてかなり正確に理解している。その上でおれの発想の斜め上を行くものだから二重に驚かされるのだ。   「だったらおれも誓ってやる。お前に殺されるまでは絶対に死んでやらねぇ」 「何に誓うんだ。神か仏か?」 「もちろん、お前に」    重たい腕を無理やり持ち上げて杉本の手前に掲げる。互いの掌をそっと重ね合わせた。

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